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「賀田金三郎」の版間の差分

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書誌情報
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|ふりがな = かだ きんざぶろう
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* 1907年 [[ニッピ|日本皮革]]取締役
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'''賀田 金三郎'''(かだ きんざぶろう、[[安政]]4年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]/[[グレゴリオ暦]] [[1857年]][[11月2日]] - [[1922年]][[7月4日]])は、日本の[[実業家]]である<ref name="jinbutsu">[[#外部リンク|''賀田金三郎'']]、[[朝日日本歴史人物事典]]、[[コトバンク]]、2012年5月18日閲覧。</ref><ref name="jinmei">[[#外部リンク|''賀田金三郎'']]、[[日本人名大辞典|デジタル版 日本人名大辞典+Plus]]、コトバンク、2012年5月18日閲覧。</ref>。[[日本統治時代の台湾]]における実業界の大物<ref>[https://www.jica.go.jp/jomm/kiyo/pdf/pdf12/Oshima.pdf 田中貞吉とペルー移民事業 移民送り出しまでの前史の分析]大島正裕、海外移住資料館研究紀要12号</ref>。相場師「賀田金」としても知られる<ref>[http://www.shijoken.co.jp/column/column_mst.html 明治44年の米買い占め戦(3)賀田金、根津理事長を味方につける 売り方の苦戦は必至]市場経済研究所(2016.02.29)</ref>。
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== 人物・来歴 ==
== 人物・来歴 ==
[[ファイル:吳全城賀田組農場.png|サムネイル|賀田村(1908年)。1904年に入植し、台湾初の日本人移民村となった。[[福島県]]人300人、[[愛媛県]]人400人、台湾人800人、原住民[[タロコ族]]300人で開墾にあたったが、たびたびタロコ族の襲撃に遭い、百人以上が亡くなった<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777919/99 賀田金三郎氏]『財界名士失敗談. 上巻』朝比奈知泉 (碌堂) 編 (毎夕新聞社, 1909) </ref>。現在の[[花蓮県]]壽豐郷平和村呉全に開拓記念碑がある<ref>[https://tabinaka.co.jp/magazine/articles/9537 豊かな大自然!実は日本と因縁深いの台湾花蓮おすすめ観光スポット選]タビナカマガジン、2017.02.17</ref>。入植から4年半で閉村した]]
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[[1857年]][[11月2日]](安政4年9月16日)、[[長門国]]萩(現在の[[山口県]][[萩市]])の[[札差|札差商家]]に生まれる<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。[[漢学]]を学び、やがて家業を継ぐ<ref name="jinbutsu" />。
[[1857年]][[11月2日]](安政4年9月16日)、[[長門国]]萩(現在の山口県[[萩市]])の[[札差|札差商家]]に生まれる<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。[[漢学]]を学び、やがて家業を継ぐ<ref name="jinbutsu" />。


1885年(明治18年)、[[東京]]に移り、[[藤田伝三郎]]の藤田組([[藤田財閥]])に入社する<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。その後、[[大倉喜八郎]]の大倉組([[大倉財閥]])に移り、同社[[広島県|広島]]支店長を経て、1895年(明治28年)に[[日清戦争]]が終結すると、同社[[台湾]]総支配人に就任する<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・[[台湾新報#社主・山下秀実|山下秀実]]らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける<ref name="jinmei" /><ref name=kim/>。翌1898年(明治31年)には[[小野田セメント]]の台湾における一手販売契約を結ぶ<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4190&query=&class=&d=all&page=4 小野田セメント製造(株)『小野田セメント製造株式会社創業五十年史』(1931.09)]</ref>。同社の経営から[[台湾総督府]]の信任を得、1899年月に土木建築請負業「賀田組」を設立して独立し、台湾各地で[[用達]]、建築業、運送業、鉄道建設や港湾事業を行うなど、[[日露戦争]]中に陸海軍用達業に従事して巨利を収めた<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" /><ref name=kim/>。さらに台湾総督府から2万町歩の土地の払い下げを受け、「賀田村」という農場村も造成して農場経営にも乗り出し、後には[[台湾銀行]]・[[台湾製糖]]などの大企業の創立に関与するほど台湾財界人としての成功を収めた<ref name=kim/>。
1885年(明治18年)、[[東京]]に移り、[[藤田伝三郎]]の藤田組([[藤田財閥]])に入社する<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。その後、[[大倉喜八郎]]の大倉組([[大倉財閥]])に移り、同社[[広島県|広島]]支店長を経て、1895年(明治28年)に[[日清戦争]]が終結すると、同社[[台湾]]総支配人に就任する<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・[[台湾新報#社主・山下秀実|山下秀実]]らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける<ref name="jinmei" /><ref name=kim/>。翌1898年(明治31年)には[[小野田セメント]]の台湾における一手販売契約を結ぶ<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4190&query=&class=&d=all&page=4 小野田セメント製造(株)『小野田セメント製造株式会社創業五十年史』(1931.09)]</ref>。同社の経営から[[台湾総督府]]の信任を得、1899年5月に土木建築請負業「賀田組」を設立して独立し、台湾各地で[[用達]]、建築業、運送業、鉄道建設や港湾事業を行うなど、[[日露戦争]]中に陸海軍用達業に従事して巨利を収めた<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" /><ref name=kim/>。さらに台湾総督府から2万町歩の土地の払い下げを受け、「賀田村」という農場村も造成して農場経営にも乗り出し、後には[[台湾銀行]]・[[台湾製糖]]などの大企業の創立に関与するほど台湾財界人としての成功を収めた<ref name=kim/>。


1907年(明治40年)4月に大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して日本皮革(現在の[[ニッピ]])が設立されると、甥の[[田畑健造]]とともに、取締役に名を連ねる<ref>『開国五十年史』、p.274.</ref>。1910年(明治43年)7月、甥の田畑が[[福宝堂]]を設立したが、この本社所在地は、賀田が所長を務めた製架機械製造所の土地であった<ref>『墨田區史』。</ref>。
1907年(明治40年)4月に大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して日本皮革(現在の[[ニッピ]])が設立されると、甥の[[田畑健造]]とともに、取締役に名を連ねる<ref>『開国五十年史』、p.274.</ref>。1910年(明治43年)7月、甥の田畑が[[福宝堂]]を設立したが、この本社所在地は、賀田が所長を務めた製架機械製造所の土地であった<ref>『墨田區史』。</ref>。


1910年の[[日韓併合]]後は、[[朝鮮半島]]も事業領域とした<ref name="jinbutsu" />。賀田は台湾の砂糖を朝鮮で販売しようと1907年頃から朝鮮に企業活動の重点を置き、鉱山開発・皮革業・精米・電気・鉄道・造林などの多様な投資活動を行なった<ref name=kim>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj/44/3/44_3_3_3/_pdf 植民地期における在朝日本人の企業経営――朝鮮勧農株式会社の経営変動と賀田家を中心に]金明洙、経営史学 44巻第3(2009年12月)</ref>。
1910年の[[日韓併合]]後は、[[朝鮮半島]]も事業領域とした<ref name="jinbutsu" />。賀田は台湾の砂糖を朝鮮で販売しようと1907年頃から朝鮮に企業活動の重点を置き、鉱山開発・皮革業・精米・電気・鉄道・造林などの多様な投資活動を行なった<ref name=kim>金明洙, 「[https://doi.org/10.5029/bhsj.44.3_3 植民地期における在朝日本人の企業経営]」『経営史学』 2009年 44巻 3 p.3_3-3_30, 経営史学会, {{doi|10.5029/bhsj.44.3_3}}</ref>。


1907年ごろから相場界に入り、1911年に米の買い占めで巨利を得る<ref>[http://www.shijoken.co.jp/column/column_nbsm160223.html 明治44年の米買い占め戦(2)買い占めの首魁は政商賀田金 大きかった米穀取引所の存在]市場経済研究所(2016.02.23)</ref>。1912年(明治45年)[[武蔵電気鉄道]]、[[東京急行電鉄]]の取締役就任<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12080&query=&class=&d=all&page=2 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)]</ref><ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12050&query=&class=&d=all&page=3 東京急行電鉄(株)『東京急行電鉄50年史』(1973.04)]</ref>。1914年発行の『当世名士縮尻り帳』によると、米相場で巨富を得るも2年続きの不景気により財産差し押さえとなり、麻布の宏大な邸宅も担保に入ったという<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906097/34 賀田金三郎の差押]『当世名士縮尻り帳』節穴窺之助、1914</ref>。
1907年ごろから相場界に入り、1911年に米の買い占めで巨利を得る<ref>[http://www.shijoken.co.jp/column/column_nbsm160223.html 明治44年の米買い占め戦(2)買い占めの首魁は政商賀田金 大きかった米穀取引所の存在]市場経済研究所(2016.02.23)</ref>。1912年(明治45年)[[武蔵電気鉄道]]、[[東京急行電鉄]]の取締役就任<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12080&query=&class=&d=all&page=2 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)]</ref><ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12050&query=&class=&d=all&page=3 東京急行電鉄(株)『東京急行電鉄50年史』(1973.04)]</ref>。1914年発行の『当世名士縮尻り帳』によると、米相場で巨富を得るも2年続きの不景気により財産差し押さえとなり、麻布の宏大な邸宅も担保に入ったという<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906097/34 賀田金三郎の差押]『当世名士縮尻り帳』節穴窺之助、1914</ref>。


[[1922年]](大正11年)[[7月4日]]、死去した<ref name="jinbutsu" /><ref name="jinmei" />。満64歳没。朝鮮の事業は婿養子の賀田直治が継いだ<ref name=kim/>。長男の以武(1894年生)は、[[東京高等師範学校]]附属中学校を経て[[早稲田大学]]商科を卒業、[[台湾総督]]を務めた[[伯爵]][[佐久間左馬太]]の孫娘を妻とし、賀田組代表社員、萩製絲代表取締役のほか、関連会社の役員を務めた<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-5758 賀田以武 (男性)]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref>。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年6月17日 (水) 05:28時点における版

かだ きんざぶろう

賀田 金三郎
賀田金三郎
生誕 1857年11月2日グレゴリオ暦
安政4年9月16日旧暦
日本の旗 日本 長門国
(現在の山口県萩市
死没 1922年7月4日
職業

実業家


活動期間 1885年 - 1922年
親戚 田畑健造
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賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である[1][2]日本統治時代の台湾における実業界の大物[3]。相場師「賀田金」としても知られる[4]

人物・来歴

賀田村(1908年)。1904年に入植し、台湾初の日本人移民村となった。福島県人300人、愛媛県人400人、台湾人800人、原住民タロコ族300人で開墾にあたったが、たびたびタロコ族の襲撃に遭い、百人以上が亡くなった[5]。現在の花蓮県壽豐郷平和村呉全に開拓記念碑がある[6]。入植から4年半で閉村した

1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる[1][2]漢学を学び、やがて家業を継ぐ[1]

1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する[1][2]。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する[1][2]。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける[2][7]。翌1898年(明治31年)には小野田セメントの台湾における一手販売契約を結ぶ[8]。同社の経営から台湾総督府の信任を得、1899年5月に土木建築請負業「賀田組」を設立して独立し、台湾各地で用達、建築業、運送業、鉄道建設や港湾事業を行うなど、日露戦争中に陸海軍用達業に従事して巨利を収めた[1][2][7]。さらに台湾総督府から2万町歩の土地の払い下げを受け、「賀田村」という農場村も造成して農場経営にも乗り出し、後には台湾銀行台湾製糖などの大企業の創立に関与するほど台湾財界人としての成功を収めた[7]

1907年(明治40年)4月に大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して日本皮革(現在のニッピ)が設立されると、甥の田畑健造とともに、取締役に名を連ねる[9]。1910年(明治43年)7月、甥の田畑が福宝堂を設立したが、この本社所在地は、賀田が所長を務めた製架機械製造所の土地であった[10]

1910年の日韓併合後は、朝鮮半島も事業領域とした[1]。賀田は台湾の砂糖を朝鮮で販売しようと1907年頃から朝鮮に企業活動の重点を置き、鉱山開発・皮革業・精米・電気・鉄道・造林などの多様な投資活動を行なった[7]

1907年ごろから相場界に入り、1911年に米の買い占めで巨利を得る[11]。1912年(明治45年)武蔵電気鉄道東京急行電鉄の取締役就任[12][13]。1914年発行の『当世名士縮尻り帳』によると、米相場で巨富を得るも2年続きの不景気により財産差し押さえとなり、麻布の宏大な邸宅も担保に入ったという[14]

1922年(大正11年)7月4日、死去した[1][2]。満64歳没。朝鮮の事業は婿養子の賀田直治が継いだ[7]。長男の以武(1894年生)は、東京高等師範学校附属中学校を経て早稲田大学商科を卒業、台湾総督を務めた伯爵佐久間左馬太の孫娘を妻とし、賀田組代表社員、萩製絲代表取締役のほか、関連会社の役員を務めた[15]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 賀田金三郎朝日日本歴史人物事典コトバンク、2012年5月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 賀田金三郎デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年5月18日閲覧。
  3. ^ 田中貞吉とペルー移民事業 移民送り出しまでの前史の分析大島正裕、海外移住資料館研究紀要12号
  4. ^ 明治44年の米買い占め戦(3)賀田金、根津理事長を味方につける 売り方の苦戦は必至市場経済研究所(2016.02.29)
  5. ^ 賀田金三郎氏『財界名士失敗談. 上巻』朝比奈知泉 (碌堂) 編 (毎夕新聞社, 1909)
  6. ^ 豊かな大自然!実は日本と因縁深いの台湾花蓮おすすめ観光スポット7選タビナカマガジン、2017.02.17
  7. ^ a b c d e 金明洙, 「植民地期における在朝日本人の企業経営」『経営史学』 2009年 44巻 3号 p.3_3-3_30, 経営史学会, doi:10.5029/bhsj.44.3_3
  8. ^ 小野田セメント製造(株)『小野田セメント製造株式会社創業五十年史』(1931.09)
  9. ^ 『開国五十年史』、p.274.
  10. ^ 『墨田區史』。
  11. ^ 明治44年の米買い占め戦(2)買い占めの首魁は政商賀田金 大きかった米穀取引所の存在市場経済研究所(2016.02.23)
  12. ^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
  13. ^ 東京急行電鉄(株)『東京急行電鉄50年史』(1973.04)
  14. ^ 賀田金三郎の差押『当世名士縮尻り帳』節穴窺之助、1914
  15. ^ 賀田以武 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

  • 芳誼会『賀田金三郎翁小伝』、印刷:吉武源五郎、1923年
  • 大隈重信『開国五十年史』、開国五十年史発行所、1970年
  • 墨田区『墨田區史』、東京都墨田区役所、1959年

関連項目

外部リンク