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「ノーラン・ブッシュネル」の版間の差分

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[[1961年]]に[[ユタ州立大学]]に入学。その後、ユタ州立大学から[[ユタ大学]][[工学部]]に転入したブッシュネルは、『[[スペースウォー!]]』の魅力を知った。ブッシュネルの専攻は電気工学だったが、後から[[プログラム]]の授業を履修する等して、『スペースウォー!』に近づく事に成功した。この他にブッシュネル自身でも簡単な追っかけゲーム『キツネとガチョウ』を作っている。
[[1961年]]に[[ユタ州立大学]]に入学。その後、ユタ州立大学から[[ユタ大学]][[工学部]]に転入したブッシュネルは、『[[スペースウォー!]]』の魅力を知った<ref name=":0">{{Cite journal|author=藤田直樹|month=11|year=1998|title=米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊--現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)|url=https://doi.org/10.14989/45249|journal=経済論叢|volume=162|issue=5・6|page=|pages=440-457|DOI=10.14989/45249}}</ref>。ブッシュネルの専攻は電気工学だったが、後から[[プログラム]]の授業を履修する等して、『スペースウォー!』に近づく事に成功した。この他にブッシュネル自身でも簡単な追っかけゲーム『キツネとガチョウ』を作っている。


[[1968年]]にユタ大学を卒業し、卒業後はアミューズメントの仕事に就こうと、[[ディズニー]]関係の会社に就職するがうまく行かず、世界初のテープレコーダー会社である[[アンペックス]]社に転職、デジタルレコーダーシステムの業務に関わったが、このアンペックス社には、後にアタリで共に仕事をする仲間が多数在籍していた。この時、既に先妻ポーラと結婚、娘を2人けているが、娘達は後述の『[[コンピュータースペース]]』の時に、とばっちりを受ける事になる。
[[1968年]]にユタ大学を卒業し、卒業後はアミューズメントの仕事に就こうと、[[ディズニー]]関係の会社に就職するがうまく行かず、世界初のテープレコーダー会社である[[アンペックス]]社に転職、デジタルレコーダーシステムの業務に関わったが、このアンペックス社には、後にアタリで共に仕事をする仲間が多数在籍していた。この時、既に先妻ポーラと結婚、娘を2人けているが、娘達は後述の『[[コンピュータースペース]]』の時に、とばっちりを受ける事になる。


[[1970年]]に電子部品の値段が安くなったのを見るや、『スペースウォー!』のアーケードゲーム版『[[コンピュータースペース]]』を製作発売したが、操作が難しく、人気が出なかった。
[[1970年]]に電子部品の値段が安くなったのを見るや、『スペースウォー!』のアーケードゲーム版『[[コンピュータースペース]]』の開発に取り掛かる<ref name=":0" />。機械ゲームメーカーのナッチング・アソシエーツ社とライセンス契約結ぶとともにテッド・ダフネイとともに同社に移籍した<ref name=":0" />。1971年11月、コンピュータースペースを1,500台製作して発売したが、操作が難しく、人気が出なかった<ref name=":0" />


これで諦めなかったブッシュネルは、[[1972年]][[アタリ (企業)|アタリ]]を創業する。社名は[[囲碁]]用語の[[アタリ (囲碁)|アタリ]]に由来する。ゲーム史上初のヒット作『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』を発売、一気にコンピューターゲームを世に浸透させ、続いて『[[ホーム・ポン]]』([[1974年]])、『ブレイクアウト』([[ブロックくずし]]、[[1976年]])等の大ヒットゲームを生み出し、わずか数年で大企業に成長させた。
これで諦めなかったブッシュネルは退職して、[[1972年]][[アタリ (企業)|アタリ]]を創業する<ref name=":0" />。社名は[[囲碁]]用語の[[アタリ (囲碁)|アタリ]]に由来する。ゲーム史上初のヒット作『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』を発売<ref name=":0" />、一気にコンピューターゲームを世に浸透させ、続いて『[[ホーム・ポン]]』([[1974年]])、『ブレイクアウト』([[ブロックくずし]]、[[1976年]])等の大ヒットゲームを生み出し、わずか数年で大企業に成長させた。


その後は[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]「[[Atari 2600]]」等を開発しようとしたが、資金難に陥る。そこで[[1976年]]にアタリの全株を[[タイム・ワーナー|ワーナー・コミュニケーションズ]]に2800万ドルで売却、これまでにも『ポン』『ブレイクアウト』で儲けていたのが、この売却でさらに1300万ドルを得、億万長者となった。だがワーナーとはその後、経営方針の違いで大きく衝突、[[1978年]]に解任、アタリから退いた。
その後は[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]「[[Atari 2600]]」等を開発しようとしたが、資金難に陥る。そこで[[1976年]]にアタリの全株を[[タイム・ワーナー|ワーナー・コミュニケーションズ]]に2800万ドルで売却<ref name=":0" />、これまでにも『ポン』『ブレイクアウト』で儲けていたのが、この売却でさらに1300万ドルを得、億万長者となった。だがワーナーとはその後、経営方針の違いで大きく衝突、[[1978年]]に解任、アタリから退いた。


ワーナー側からすれば2年続けた赤字に、株を売却した資金で浮わついてしまったブッシュネルを見切ったとしている。ジャック・ホルツマンはワーナーの買収後にアタリの取締役になったが、エレクトラレコードを23年続けたソフト産業の玄人から見て、アタリは商品管理や人気ソフトの陳腐化までの読みが甘く馬鹿だったと証言している。
ワーナー側からすれば2年続けた赤字に、株を売却した資金で浮わついてしまったブッシュネルを見切ったとしている。ジャック・ホルツマンはワーナーの買収後にアタリの取締役になったが、エレクトラレコードを23年続けたソフト産業の玄人から見て、アタリは商品管理や人気ソフトの陳腐化までの読みが甘く馬鹿だったと証言している。
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[[2008年]]、[[パラマウント映画]]が、[[レオナルド・ディカプリオ]]主演でブッシュネルの半生を描いた映画『Atari』を製作発表。プロデューサーもレオナルド・ディカプリオが務めた。
[[2008年]]、[[パラマウント映画]]が、[[レオナルド・ディカプリオ]]主演でブッシュネルの半生を描いた映画『Atari』を製作発表。プロデューサーもレオナルド・ディカプリオが務めた。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==

*[[NHKスペシャル]] [[新・電子立国]] 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防: ISBN 4-14-080274-X
*[[それは『ポン』から始まった]]:赤木真澄 [[アミューズメント通信社]] ISBN 4-9902512-0-2 C3076


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons|Atari}}
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* [http://www.atarimuseum.com/ Atari History Museum(英語)]
* [http://www.atarimuseum.com/ Atari History Museum(英語)]

== 参考文献 ==
* [[NHKスペシャル]] [[新・電子立国]] 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防: ISBN 4-14-080274-X
* [[それは『ポン』から始まった]]:赤木真澄 [[アミューズメント通信社]] ISBN 4-9902512-0-2 C3076


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2020年4月21日 (火) 07:27時点における版

ノーラン・ブッシュネル

ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell, 1943年2月5日 - )は、アメリカ合衆国の元ゲームデザイナー実業家で、アタリ社の創業者。娯楽産業史上「ビデオゲームの父」と呼ばれる。以前の日本語表記はローマ字読みで「ノラン」だったが、現在は発音に忠実な「ノーラン」が使われている。

軌跡

ビデオゲームに触れるまで

ユタ州ソルトレイクシティに近いクリアフィールド町に、4人兄弟の第2子(長男)として生まれる。子供の頃からSF・パズル・数学・電気工作が好きで、10歳でアマチュア無線を始め、コールサインはW7DUK。セメント業者でモルモン教徒の父は、ブッシュネルが15歳の時に亡くなったが、生命保険に入っていたので、生活は苦しくなかった。

ブッシュネルは、「自立性と感性を養う」「父の死」「教科書を買う金をポーカーで負けてすってしまう」等の理由から、小遣いを貰えなかったので、アルバイトをする必要が生じた。得意の電気工作を活かし、電気製品の格安修理を個人で行なったりしたが、一番大きな体験は、大学時代における近所の老舗遊園地「ラグーン遊園地」でのアルバイトだった。これはゲームコーナーでの客引き・射的や輪投げのプレゼント渡し・電気工作によるエレメカの修理などで、通常は週末のみだったが、夏休みは毎日働き、実績を得ると、経理などの事務業務も任された。ブッシュネルはこれで「アーケードゲームで儲ける」「電気工作で儲ける」という感覚を身につけ、これが後のゲームビジネスに役立ったと語っている。

『スペースウォー!』からアタリ時代

※各記事の詳細はいずれもそのリンク先の項目を参照。

1961年ユタ州立大学に入学。その後、ユタ州立大学からユタ大学工学部に転入したブッシュネルは、『スペースウォー!』の魅力を知った[1]。ブッシュネルの専攻は電気工学だったが、後からプログラムの授業を履修する等して、『スペースウォー!』に近づく事に成功した。この他にブッシュネル自身でも簡単な追っかけゲーム『キツネとガチョウ』を作っている。

1968年にユタ大学を卒業し、卒業後はアミューズメントの仕事に就こうと、ディズニー関係の会社に就職するがうまく行かず、世界初のテープレコーダー会社であるアンペックス社に転職、デジタルレコーダーシステムの業務に関わったが、このアンペックス社には、後にアタリで共に仕事をする仲間が多数在籍していた。この時、既に先妻ポーラと結婚、娘を2人設けているが、娘達は後述の『コンピュータースペース』の時に、とばっちりを受ける事になる。

1970年に電子部品の値段が安くなったのを見るや、『スペースウォー!』のアーケードゲーム版『コンピュータースペース』の開発に取り掛かる[1]。機械ゲームメーカーのナッチング・アソシエーツ社とライセンス契約を結ぶとともにテッド・ダフネイとともに同社に移籍した[1]。1971年11月、コンピュータースペースを1,500台製作して発売したが、操作が難しく、人気が出なかった[1]

これで諦めなかったブッシュネルは退職して、1972年アタリを創業する[1]。社名は囲碁用語のアタリに由来する。ゲーム史上初のヒット作『ポン』を発売[1]、一気にコンピューターゲームを世に浸透させ、続いて『ホーム・ポン』(1974年)、『ブレイクアウト』(ブロックくずし1976年)等の大ヒットゲームを生み出し、わずか数年で大企業に成長させた。

その後は家庭用ゲーム機Atari 2600」等を開発しようとしたが、資金難に陥る。そこで1976年にアタリの全株をワーナー・コミュニケーションズに2800万ドルで売却[1]、これまでにも『ポン』『ブレイクアウト』で儲けていたのが、この売却でさらに1300万ドルを得、億万長者となった。だがワーナーとはその後、経営方針の違いで大きく衝突、1978年に解任、アタリから退いた。

ワーナー側からすれば2年続けた赤字に、株を売却した資金で浮わついてしまったブッシュネルを見切ったとしている。ジャック・ホルツマンはワーナーの買収後にアタリの取締役になったが、エレクトラレコードを23年続けたソフト産業の玄人から見て、アタリは商品管理や人気ソフトの陳腐化までの読みが甘く馬鹿だったと証言している。

アタリ退社後

ワーナーとの契約時、「退社後5年間はアタリと競合する業務をしてはいけない」と言う条件があった為、5年間はゲーム以外の仕事を行なっていた。5年経った1983年からはアーケードゲームにも復帰し、主な事業は以下の通り。

ピザタイムシアター PTT(1977年開店、解任後すぐ店舗拡張開始)
ピザ屋とゲームセンターの融合店。アタリ退社後に一番成功した事業はこれで、再度注目の人となった。後に経営悪化、キーナンにトップの座を任せたが、競合他社に吸収合併された。
アクスロン(1980年
コンピューター周辺機器メーカー。
センテ・アーケード・コンピューターシステム SAC(1983年
老舗アーケードメーカー、バリー社の協力を得た、アーケードゲーム用基板のレンタル業。この社名も囲碁用語(先手)で、アタリ創業時の社名候補だった。だがレンタルというシステムが市場に受け入れられず、カートリッジ式基板も既にデータイーストデコ・カセットシステムが先を行っており、ヒットしたゲームは『ハットトリック』だけだった。
カタリスト・テクノロジーズ(1981年
ベンチャー企業の共同体で、新技術・新製品の援助を運営者と参加者同士で行なう。ちなみに「コンピュータースペース」開発時にとばっちりを受けた長女アリサも、父の血を受け継ぎベンチャー企業を経営、父と長女で同じビルに事務所を構えた事もある。
ユーウィンク(2000年
タッチパネルインターネット端末を使ったゲームシステム。
(名称不明)
映画の様に複雑化したゲーム界を見直し、誰でも遊べる簡単なゲームを併設した飲食店。

だがこれらも、最後まで成功せず挫折する事業が多く、1985年には破産した。現在は各種団体のメンバーや講演会などを仕事とする、「忙しい失業者」である。自家用ジェット機を2機も持ち、下院議員に立候補の話も出た事がある。

2005年にはアメリカの大型レジャー施設「メトレオン」に、「ゲームの歩みを記した人物」(Walk of Game)として、ブッシュネルと宮本茂の名が、星印の中に刻まれた。

2008年パラマウント映画が、レオナルド・ディカプリオ主演でブッシュネルの半生を描いた映画『Atari』を製作発表。プロデューサーもレオナルド・ディカプリオが務めた。

脚注

参考文献

外部リンク