コンテンツにスキップ

「猪苗代第一発電所」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
出典補強
書誌情報
2行目: 2行目:


==概要==
==概要==
日本では[[明治時代]]後半、ようやく長距離高圧送電に関する技術的な目途がつくようになり、[[関東地方]]に近く水量が豊富な猪苗代湖の湖水を利用した[[電源開発]]が模索されるようになった。[[1899年]](明治36年)の[[安積疏水]]を利用した沼上発電所完成に続き、[[1914年]](大正3年)には、[[仙石貢]]が率いる猪苗代水力電気株式会社の手により関東地方への送電を視野においた猪苗代第一発電所が完成した。運用開始時の出力37,500kWは当時東洋一の規模であり、初の115kV送電は日本の産業、経済を長らく支えることとなった。発電所の建物は、[[東京駅]]や[[日本銀行本店]]などを手掛けた[[辰野金吾]]が設計している<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.kanko-koriyama.gr.jp/asaka-sosui/cultural/cultural34.html |title=猪苗代第一発電所 |publisher=日本遺産ホームページ |accessdate=2020-03-08}}</ref>。大成功を収めた猪苗代水力電気株式会社は、その後も猪苗代第二発電所の建設を行うなどの開発を続けたが、[[1923年]](大正12年)に[[東京電燈]]に合併されて現在の東京電力へつながる<ref>{{Cite web |date=2015|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj/53/8/53_670/_pdf/-char/ja |title=猪苗代第三第四発電所と近代化の諸相 |format=PDF |publisher=J-stage |accessdate=2020-03-07}} </ref>。
日本では[[明治時代]]後半、ようやく長距離高圧送電に関する技術的な目途がつくようになり、[[関東地方]]に近く水量が豊富な猪苗代湖の湖水を利用した[[電源開発]]が模索されるようになった。[[1899年]](明治36年)の[[安積疏水]]を利用した沼上発電所完成に続き、[[1914年]](大正3年)には、[[仙石貢]]が率いる猪苗代水力電気株式会社の手により関東地方への送電を視野においた猪苗代第一発電所が完成した。運用開始時の出力37,500kWは当時東洋一の規模であり、初の115kV送電は日本の産業、経済を長らく支えることとなった。発電所の建物は、[[東京駅]]や[[日本銀行本店]]などを手掛けた[[辰野金吾]]が設計し<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.kanko-koriyama.gr.jp/asaka-sosui/cultural/cultural34.html |title=猪苗代第一発電所 |publisher=日本遺産ホームページ |accessdate=2020-03-08}}</ref>。大成功を収めた猪苗代水力電気株式会社は、その後も猪苗代第二発電所の建設を行うなどの開発を続けたが、[[1923年]](大正12年)に[[東京電燈]]に合併されて現在の東京電力へつながる<ref>{{Cite journal |和書 |author=野村俊一 |date=2015|url=https://doi.org/10.3151/coj.53.670 |title=猪苗代第三第四発電所と近代化の諸相 |date=2015 |volume=53 |issue=8 |pages=670-671 |journal=コンクリート工学 |publisher=日本コンクリート工学会 |accessdate=2020-03-07}} </ref>。


猪苗代第一発電所をはじめとした猪苗代湖の湖水を利用した発電所群は、日本の戦前・戦後の経済を支え続けた。当時の発電は水力発電に多くを頼っており、記録的な渇水年となった[[1951年]](昭和26年)には、猪苗代湖の湖水低下や猪苗代発電所群の稼働状況が[[計画停電]]の動向を左右するものとして、新聞で大きく報道されている<ref>「頼りにならぬ干いた電源 猪苗代湖や阿賀川系」『朝日新聞』昭和26年10月12日</ref>。
猪苗代第一発電所をはじめとした猪苗代湖の湖水を利用した発電所群は、日本の戦前・戦後の経済を支え続けた。当時の発電は水力発電に多くを頼っており、記録的な渇水年となった[[1951年]](昭和26年)には、猪苗代湖の湖水低下や猪苗代発電所群の稼働状況が[[計画停電]]の動向を左右するものとして、新聞で大きく報道されている<ref>「頼りにならぬ干いた電源 猪苗代湖や阿賀川系」『朝日新聞』昭和26年10月12日</ref>。


[[2016年]](平成28年)4月25日、猪苗代第一発電所が猪苗代第二発電所などとともに[[日本遺産]]に認定された<ref>{{Cite web |date= |url=https://aizu-industrial-tourism.com/spot/spot-41/ |title=産業遺産スポット 猪苗代第一発電所 |publisher=会津地域産業観光ガイド |accessdate=2020-03-08}}</ref>。
[[2016年]](平成28年)4月25日、猪苗代第一発電所が猪苗代第二発電所などとともに[[日本遺産]]に認定された<ref>{{Cite web |date= |url=https://aizu-industrial-tourism.com/spot/spot-41/ |title=産業遺産スポット 猪苗代第一発電所 |publisher=会津地域産業観光ガイド |accessdate=2020-03-08}}</ref>。


==脚注==
==脚注==

2020年3月12日 (木) 05:37時点における版

猪苗代第一発電所(いなわしろだいいちはつでんしょ)は、福島県会津若松市河東町八田にあり、東京電力が所有、管理する水力発電所猪苗代湖の湖水を阿賀野川水系へ放水する水力発電所群のなかでは最も古く最上流部にあたる。

概要

日本では明治時代後半、ようやく長距離高圧送電に関する技術的な目途がつくようになり、関東地方に近く水量が豊富な猪苗代湖の湖水を利用した電源開発が模索されるようになった。1899年(明治36年)の安積疏水を利用した沼上発電所完成に続き、1914年(大正3年)には、仙石貢が率いる猪苗代水力電気株式会社の手により関東地方への送電を視野においた猪苗代第一発電所が完成した。運用開始時の出力37,500kWは当時東洋一の規模であり、初の115kV送電は日本の産業、経済を長らく支えることとなった。発電所の建物は、東京駅日本銀行本店などを手掛けた辰野金吾が設計した[1]。大成功を収めた猪苗代水力電気株式会社は、その後も猪苗代第二発電所の建設を行うなどの開発を続けたが、1923年(大正12年)に東京電燈に合併されて現在の東京電力へつながる[2]

猪苗代第一発電所をはじめとした猪苗代湖の湖水を利用した発電所群は、日本の戦前・戦後の経済を支え続けた。当時の発電は水力発電に多くを頼っており、記録的な渇水年となった1951年(昭和26年)には、猪苗代湖の湖水低下や猪苗代発電所群の稼働状況が計画停電の動向を左右するものとして、新聞で大きく報道されている[3]

2016年(平成28年)4月25日、猪苗代第一発電所が猪苗代第二発電所などとともに日本遺産に認定された[4]

脚注

  1. ^ 猪苗代第一発電所”. 日本遺産ホームページ. 2020年3月8日閲覧。
  2. ^ 野村俊一「猪苗代第三・第四発電所と近代化の諸相」『コンクリート工学』第53巻第8号、日本コンクリート工学会、2015年、670-671頁、2020年3月7日閲覧 
  3. ^ 「頼りにならぬ干いた電源 猪苗代湖や阿賀川系」『朝日新聞』昭和26年10月12日
  4. ^ 産業遺産スポット 猪苗代第一発電所”. 会津地域産業観光ガイド. 2020年3月8日閲覧。