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'''小川 蕃'''(おがわ しげし、[[1891年]]([[明治]]24年)[[10月14日]] - [[1939年]]([[昭和]]14年)[[9月1日]])は、[[日本]]の[[外科医]]、[[外科学]]者、[[医学博士]]。[[京城帝国大学]][[医学部]]第二外科学教室教授。
'''小川 蕃'''(おがわ しげし、[[1891年]]([[明治]]24年)[[10月14日]] - [[1939年]]([[昭和]]14年)[[9月1日]])は、日本の[[外科医]]、[[外科学]]者、[[医学博士]]。[[京城帝国大学]][[医学部]]第二外科学教室教授。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[新潟県]][[中蒲原郡]][[津島村 (新潟県)|津島村]]大字古津(現新潟県[[新潟市]][[秋葉区]][[古津 (新潟市)|古津]])出身。[[1909年]][[明治]]42年)3月に[[新潟県立新潟高等学校|新潟中学校]]を卒業、[[1913年]][[大正]]2年)7月に[[第二高等学校]]を卒業<ref group="注">[[1910年]][[明治]]43年)9月に[[第二高等学校]]に入学。</ref>、[[1917年]](大正6年)12月に[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京帝国大学医科大学]][[医学科]]を卒業<ref group="注">[[1915年]][[大正]]4年)6月の第1期医学科試験に合格、[[1917年]](大正6年)7月に[[医学科]]の全課程を修了、同年9月から12月まで実施された第2期医学科試験に合格して[[医師]]免許を取得、[[1918年]](大正7年)[[7月9日]]の「卒業證書授與式」で卒業証書を受領。</ref>。
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[[1918年]](大正7年)1月に東京帝国大学医科大学[[外科学]]教室([[近藤次繁]]教授)副手に就任、[[1919年]](大正8年)から[[三菱重工業神戸造船所|神戸三菱造船所]]病院に勤務、[[1921年]](大正10年)3月に[[朝鮮総督府]]医院医官に就任、同年6月から[[京城医学専門学校]]教授を兼任。
1918年(大正7年)1月に東京帝国大学医科大学[[外科学]]教室(教授[[近藤次繁]])副手に就任、1919年(大正8年)から[[三菱重工業神戸造船所|神戸三菱造船所]]病院に勤務、1921年(大正10年)3月に[[朝鮮総督府]]医院医官に就任、同年6月から[[京城医学専門学校]]教授を兼任。


[[1924年]](大正13年)9月から1年間、外科学の研究のために[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[スイス]]、[[アメリカ]]に留学、[[1926年]](大正15年)3月に東京帝国大学から[[医学博士]]号を取得。
1924年(大正13年)9月から1年間、外科学の研究のために[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[スイス]]、[[アメリカ]]に留学、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学から[[医学博士]]号を取得。


[[1927年]][[昭和]]2年)4月に[[京城帝国大学]][[医学部]]外科学教室助教授に就任、[[1928年]](昭和3年)4月に京城帝国大学医学部第二外科学教室教授に就任。
1927年(昭和2年)4月に[[京城帝国大学]][[医学部]]外科学教室助教授に就任、1928年(昭和3年)4月に京城帝国大学医学部第二外科学教室教授に就任。


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* 「北朝鮮滿洲國隣接地帶の土疾 カシン・ベツク氏病」『診斷と治療』第25巻第2号、240-242頁、江田栄[共著]、診断と治療社、1938年。
* 「北朝鮮滿洲國隣接地帶の土疾 カシン・ベツク氏病」『診斷と治療』第25巻第2号、240-242頁、江田栄[共著]、診断と治療社、1938年。
* 「因腹部鈍體衝&#64085;而發生之腸管破裂」『同仁醫學』第11巻第6号、39-43頁、同仁会、1938年。
* 「因腹部鈍體衝&#64085;而發生之腸管破裂」『同仁醫學』第11巻第6号、39-43頁、同仁会、1938年。
* 「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ringe1938/3/4/3_4_191/_pdf 特發牲疽患&#64091;の血管像と療法に就て]}}」『日本臨外科醫會雜誌』3巻4号191-197頁、江田栄[共著]、[[日本臨床外科学会|日本臨床外科医会]]、1939年。
* 小川蕃, 江田榮、「[https://doi.org/10.3919/ringe1938.3.4_191 15 特發牲疽患の血管像と療法に就て]」 『日本臨外科医会雑誌』 1939年 3巻 4号 p.191-197, {{doi|10.3919/ringe1938.3.4_191}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
* 「故京城帝國大學敎授小川蕃博士」『外科』第3巻第12号、口絵、外科雑誌社、1939年。
* 「故京城帝國大學敎授小川蕃博士」『外科』第3巻第12号、口絵、外科雑誌社、1939年。
* 「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ 小川蕃」『新津市の文化財 第2集: いしぶみ編 その2』表紙、[[新潟市立新津図書館|新津市立記念図書館]][編]、[[新津市]]教育委員会、1977年。
* 「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ 小川蕃」『新津市の文化財 第2集: いしぶみ編 その2』表紙、[[新潟市立新津図書館|新津市立記念図書館]][編]、新津市教育委員会、1977年。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/about/kankou/culture/motto/senjin.html#cms04 小川蕃 - 秋葉区ゆかりの先人たち] - [[新潟市]][[秋葉区]]
* [https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/about/kankou/culture/motto/senjin.html#cms04 小川蕃 - 秋葉区ゆかりの先人たち] - 新潟市[[秋葉区]]
* [http://www.city.niigata.jp/info/bunka/niigatakara/search/detail.asp?eventId=1095 小川蕃 | ニイガタカラ.Net] - 新潟市
* [http://www.city.niigata.jp/info/bunka/niigatakara/search/detail.asp?eventId=1095 小川蕃 | ニイガタカラ.Net] - 新潟市



2019年7月3日 (水) 08:21時点における版

小川 蕃(おがわ しげし、1891年明治24年)10月14日 - 1939年昭和14年)9月1日)は、日本の外科医外科学者、医学博士京城帝国大学医学部第二外科学教室教授。

略歴

新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現新潟県新潟市秋葉区古津)出身。1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業[注 1]、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業[注 2]

1918年(大正7年)1月に東京帝国大学医科大学外科学教室(教授近藤次繁)副手に就任、1919年(大正8年)から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、同年6月から京城医学専門学校教授を兼任。

1924年(大正13年)9月から1年間、外科学の研究のためにドイツフランススイスアメリカに留学、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。

1927年(昭和2年)4月に京城帝国大学医学部外科学教室助教授に就任、1928年(昭和3年)4月に京城帝国大学医学部第二外科学教室教授に就任。

1939年(昭和14年)9月1日午後2時に京城帝国大学医学部附属医院の診察室で外来患者の診察後に心臓麻痺で急逝[1][注 3][注 4]

1941年(昭和16年)9月1日に小川蕃の教え子たちが小川蕃の故郷の新潟県中蒲原郡金津村大字古津(現新潟県新潟市秋葉区古津)の古津八幡山遺跡の近くの小川家の墓所に朝鮮金剛山御影石で小川蕃の墓碑を建立した[2][3][注 5]

甲状腺腸閉塞などの研究で業績を上げた[3][6]。また、熱心かつ懇切に医学生を教育・指導し、朝鮮半島における近代外科学の発展に貢献した[1][4][6][7][8][9][10]

親族

著書

論文

  • 「肝臟膿瘍」『診斷と治療』第16巻第4号、479-488頁、金朋学[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 「腸閉塞症」『診斷と治療』第16巻第8号、1004-1009頁、三浦良雄[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 「蟲樣突起炎の合併症としての右側腎盂炎」『診斷と治療』第16巻第12号、1510-1518頁、三浦良雄[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 「胃潰瘍」『診斷と治療』第17巻第8号、1073-1080頁、朴乾源[共著]、診断と治療社、1930年。
  • 「高位腸閉塞の死因に就て」『診斷と治療』第18巻第2号、163-173頁、診断と治療社、1931年。
  • 「「イレウス」治療時內容の處置に就て」『診斷と治療』第20巻第1号、123-127頁、診断と治療社、1933年。
  • 「バセドー氏病の診斷と療法 (I)」『東西醫學大觀 後期 第四卷』771-774頁、東西医学社[編]、東西医学社、1933年。
  • 「バセドー氏病の診斷と療法 (II)」『東西醫學大觀 後期 第四卷』775-782頁、東西医学社[編]、東西医学社、1933年。
  • 「全身傳染症 (Allgemeininfektion) に就て」『臨牀外科』第2巻第2号、83-86頁、朝鮮外科同攻会[編]、満鮮之医界社、1935年。
  • 「壯年期 或は特發性壞死(脫疽)(抄)」『日獨治療』第11年第4号、85-89頁、日独治療社、1936年。
  • 「北朝鮮滿洲國隣接地帶の土疾 カシン・ベツク氏病」『診斷と治療』第25巻第2号、240-242頁、江田栄[共著]、診断と治療社、1938年。
  • 「因腹部鈍體衝突而發生之腸管破裂」『同仁醫學』第11巻第6号、39-43頁、同仁会、1938年。
  • 小川蕃, 江田榮、「15 特發牲脱疽患者の血管像と療法に就て」 『日本臨床外科医会雑誌』 1939年 3巻 4号 p.191-197, doi:10.3919/ringe1938.3.4_191

脚注

注釈

  1. ^ 1910年(明治43年)9月に第二高等学校に入学。
  2. ^ 1915年(大正4年)6月の第1期医学科試験に合格、1917年(大正6年)7月に医学科の全課程を修了、同年9月から12月まで実施された第2期医学科試験に合格して医師免許を取得、1918年(大正7年)7月9日の「卒業證書授與式」で卒業証書を受領。
  3. ^ 高血圧症を患っており、1939年(昭和14年)2月に長崎県雲仙市雲仙温泉で療養したりしたが、医局員たちからの静養の勧めを断り、完治しないまま職責を尽くしていた[1]
  4. ^ 新津市史 通史編 下巻』の939頁には「手術室で外来患者手術中に脳溢血で死亡」とある。『新潟県大百科事典 別巻』の61頁と『郷土再発見! ふるさとの誇り100話』の23頁には「病を押して病室回診中」とあり、死因には言及していない。
  5. ^ 小川蕃の墓碑には、「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ」という小川蕃の言葉が刻まれている[3][4]。筆者は元京城帝国大学医学部第二外科学教室助教授の調来助長崎市栄誉市民、長崎大学名誉教授、放射線影響研究所名誉顧問)である[3][5]

出典

参考文献

  • 「小川蕃敎授の永眠を悼む」『外科』第3巻第10号、68頁、外科雑誌社、1939年。
  • 「小川蕃」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』142-143頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
  • 「小川蕃」『新潟県 人物・人材情報リスト 2019』第1巻、466頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2018年。
  • 「小川蕃」『新潟県大百科事典 別巻』61頁、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
  • 「小川蕃」『新津市誌 金津・小合・新関地区編』1009-1011頁、新津市図書館[編]、新津市役所、1979年。
  • 「小川蕃」『新津市史 通史編 下巻』939頁、新津市史編さん委員会[編]、新津市、1994年。
  • 「小川蕃墓碑」『新津市の文化財 第2集: いしぶみ編 その2』32-33頁、新津市立記念図書館[編]、新津市教育委員会、1977年。
  • 「朝鮮医学会の発展に貢献した外科医 小川蕃(新津市)」『郷土再発見! ふるさとの誇り100話』22-23頁、「ふるさとの誇り100話」編集事務局[編]、新潟県新津地域振興調整会議、2005年。

関連文献

  • 「故京城帝國大學敎授小川蕃博士」『外科』第3巻第12号、口絵、外科雑誌社、1939年。
  • 「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ 小川蕃」『新津市の文化財 第2集: いしぶみ編 その2』表紙、新津市立記念図書館[編]、新津市教育委員会、1977年。

外部リンク