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=== 出典 ===
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=== 参考資料 ===
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*{{cite journal|和書|author1=渡辺善雄|title=鴎外の遺言と栄典制度―新資料・加藤拓川宛賀古鶴所書簡の意味するもの
|journal=鴎外|issn=02877880|publisher=森鴎外記念会|number=63|pages=1-13|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40000274889/| access-date=2018-03-27|ref=harv|date=1998-07}}
*{{cite journal|和書|author1=梅溪昇|title=〔緒方収二郎宛書簡他〕紹介(1) 賀古鶴所より緒方収二郎あて書簡 : 明治初期医学事情|journal= 適塾|issn=0916-4030|publisher=適塾記念会|number=31|pages=99-135|ref=harv|year=1998}}
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*{{cite journal|和書|title=歌人としての賀古鶴所―「鴎外の親友」の文学的素養|author1=島内 景二|author2=電気通信大学[編]|volume=16 |number=1 (通号: 31) |pages=55-82|journal=電気通信大学紀要|issn= 0915-0935|oclc=5180073644|url=https://uec.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6814&item_no=1&page_id=13&block_id=21|access-date=2018-03-28|publisher= 電気通信大学|ref=harv|date= 2003-07-31}}
*{{cite journal|和書|author1=沢井清|title=鴎外の友人-賀古鶴所|journal=宮城学院女子大学研究論文集|issn= *{{cite journal|和書|title=森鷗外の親友 軍医・耳科医たる賀古鶴所|author1=木村繁|journal=第19回足立医学会論文集|ref=harv|date=2004-02-14}}
*{{cite book|和書|author1=夏目漱石ほか|author2=日本近代文学館[編]|chapter=1章 世間も真ノ開化ニハなり兼候様子也(成島柳北)―福地桜痴から賀古鶴所まで(幕末‐)|title=明治の文人たち : 候文と言文一致体|series=日本近代文学館資料叢書 : 第2期 . 文学者の手紙 |number=1|ncid=BA85512376|isbn=9784891779795|ref=harv|year=2008}}
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*{{cite web|和書|author1=文京区立森鷗外記念館 |title=平成28(2016)年度コレクション展
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*{{cite book|和書|author1=森鴎外|author2=賀古鶴所|author3=文京区立森鴎外記念館[企画・編集]|title=賀古鶴所|series=森鴎外宛書簡集|publisher=文京区立森鴎外記念館|volume=1|page=141|ncid=BB23889179|ref=harv|year=2017}} - 二人が交わした書簡250通以上より文京区立森鴎外記念館所蔵分の解説。同館で2016年12月9日から2017年1月29日に「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」展を開催。


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2018年3月30日 (金) 16:35時点における版

賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日安政2年1月2日) - 1931年昭和6年)1月1日)は、明治期から昭和初期の医師日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常盤会を開催する。遠江国の出身。

経歴

1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩藩医賀古公斎の一子として生まれ、明治維新後の転封に伴い千葉県市川に転居した[1]1870年明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学し陸軍依託生として1881年(明治14年)同じ陸軍軍医になる菊池常三郎森林太郎(鴎外)小池正直等と東京大学医学部を卒業し[2][3]、直後に陸軍軍医に任官した。賀古は森林太郎より7歳年長で入学は2年早かったが、何らかの理由で進級が遅れ同期卒業となり、寄宿舎では同部屋であったことから林太郎は賀古を友として終生信頼した。なお、鴎外を陸軍軍医に勧めたのは賀古と言われている。1922年の鴎外の死にあたって、遺言の口述筆記にたずさわる。鴎外の遺志に反して、死後は森家の遺族に冷淡であったと鴎外の娘・小堀杏奴は賀古に対する不信をその著書に書き記している。

大学卒業後暫く東京大学医学部緒方正規に師事し細菌学を学び、陸軍軍医学校教官を拝命すると細菌学を教え、その後内務卿山県有朋の知遇を得て、1888年(明治21年)山県渡欧の際同行し、賀古は翌年までドイツに留まりベルリン大学で耳鼻咽喉科学を修めた[1][3]。帰国後は、日本で最初の近代医学に基づく耳鼻咽喉科医師として、復職した軍医学校で教えると共に日本赤十字社病院(日赤病院)において耳鼻咽喉科外来診察を受け持った[3]1896年(明治29年)日本の精神科の開拓者で東京帝国大学医科大学(明治20年学制改制により東京大学医学部より変更)教授であった榊俶(さかき はじめ)が食道癌に罹った際、賀古が東京慈恵医院医学校教授金杉英五郎と共に日赤病院部長として手術を執刀した[4]。なお、この間1894年(明治27年)歩兵第三連隊付き軍医として日清戦争に従軍した。

優秀な医師が不足していた当時、軍医が個人で医院を開業することが許されており(1899年(明治32年)正式に開業が禁止された)、1892年(明治25年)賀古も神田小川町に『賀古耳科院』を開業した[1]。1896年(明治29年)、賀古は第5師団軍医部長を命じられたが東京を離れることを嫌い退職を願い認められ予備役に編入、賀古耳科院の経営に専心した[1]。ただし、1904年(明治37年)日露戦争に際しては山県有朋の申し出により軍医に復し従軍した。

1931年(昭和6年)1月1日脳溢血により急逝する。軍医としての最終階級は軍医監(明治30年軍制改革前の階級で大佐相当)であった。

賀古は上総軽井沢と呼ばれる日在(現千葉県いすみ市)に別荘『鶴荘』を持っていたが、その隣に鴎外の別荘『鴎荘』があり、同地には野間清治石井菊次郎与謝野晶子等の別荘もあったと伝えられる[1]

常葉会

賀古と鴎外は1906年(明治39年)6月10日、佐々木信綱小出粲(こいで つばら)・大口周魚井上通泰を浜町の『常盤』と言う料亭に招き、新しい短歌会を興すことを諮った。当時短歌は旧派(桂園派の流れ)と新派(正岡子規根岸短歌会など)に分裂しており、短歌会の調和を諮ることを目的とした。1906年(明治39年)9月23日に第1回歌会が賀古邸で開かれ、山県有朋の支援を受けて飯田町の賀古邸と山県の椿山荘とで原則交互に開催した。入撰作を纏めた『常盤会詠草』は全5巻あり、第1編は1909年(明治42年)に、第5編は1917年(大正6年)12月に刊行された(現在東京大学附属図書館所蔵[1])。

常盤会詠草掲載短歌 (賀古鶴所作)

  • はしためを あなづりがほに 小鼠の かまどのかげに 見えがくれする
  • まがねふく けぶりに枯れぬ しらくもの 日ごとやどりし たにの老杉
  • 曲玉も ほればいづとふ をかのべに かみ代のすぎの かみさびてたつ
  • つなぎ綱 たたれて海に すすみいでし 舟のへさきに しらなみぞたつ
  • 冬枯の いてふの老木 さむげにも ぬけいでてみゆる うぶすなのもり

鴎外作品における賀古鶴所

  • ヰタ・セクスアリス』(1909年(明治42年)発表、鴎外の自伝小説)賀古は"古賀"と言う名前で登場[1]
  • 舞姫』(1890年(明治23年)発表、ドイツ留学体験を下敷きにして執筆された短編小説)舞姫に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。また、同小説に登場する天方伯爵は山県有朋がモデルと言われる[1][5]

栄典

著書

  • 「歇爾曼氏生理学」(ケルマン著 賀古鶴所訳 刀圭書院 1882年)
  • 「産婦備用」(パイペル著 賀古鶴所訳 後凋閣 1887年)
  • 「千葉醫學會雜誌 (6)」 P4「吃の匡正法 賀古鶴所」の項(日本医史学会 1892年6月5日)
  • 「耳科新書」(賀古鶴所編 賀古鶴所 1894年)
  • 「実用外科各論 全4巻」(菊池常三郎編 回生堂 1897年)
  • 「家庭衛生講話 第6編 耳之衛生」(賀古鶴所著 博文館 1908年)

家族

父:賀古公斎
次弟:賀古篤男(夭逝)
三弟:賀古桃次(愛知県立医学専門学校教授)
姪:かつら(桃次の娘、賀古鶴所の養女)鴎外晩年の主治医額田晉に嫁ぐ。
甥:明(桃次の息子)

自身は生涯独身であった。

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h 「電気通信大学紀要16(1)」 P55「歌人としての賀古鶴所─「鴎外の親友」の文学的素養 内景二」の項(電気通信大学 2003年7月31日)
  2. ^ 「東京帝国大学一覧 従明治20年至明治21年」 P255「医学士 明治14年卒業」の項(東京帝国大学)
  3. ^ a b c 「日本人名大事典(新撰大人名辞典)復刻版 2巻」 P34「賀古鶴所」の項(下中邦彦編 平凡社 1979年)
  4. ^ 東大病院だより No50. “東大病院創立150 周年に向けて 3.精神科 P50-51”. 2013年1月21日閲覧。
  5. ^ ちくまの教科書 筑摩書房. “舞姫先生は語る 第5回舞姫の政治的側面”. 2013年1月21日閲覧。
  6. ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。

参考資料

  • 阿達義雄「鴎外晩年の社会政策―賀古鶴所への書簡を中心として」『新潟大学教育学部紀要』第5巻第1号、新潟大学教育学部、1963年。 
  • 沢井清「鴎外の友人―賀古鶴所」『宮城学院女子大学研究論文集』第55号、1981年、49-64頁、ISSN 0386-7501OCLC 5174822709 
  • 沢井清「賀古鶴所と鴎外」『国文学 : 解釈と鑑賞』第2号、至文堂、1984年1月、156-162頁。 
  • 額田煜「賀古鶴所」『日本医事新報』第3441号、1990年4月7日。 
  • 木村 繁、飯塚 啓介「初期の耳科喉頭科診療について」『日本耳鼻咽喉科学会会報』第93巻、1990年、1623頁、エラー: 不正なDOI指定ですISSN 0030-66222018年3月27日閲覧 
  • 渡辺善雄「鴎外の遺言と栄典制度―新資料・加藤拓川宛賀古鶴所書簡の意味するもの」『鴎外』第63号、森鴎外記念会、1998年7月、1-13頁、ISSN 028778802018年3月27日閲覧 
  • 梅溪昇「〔緒方収二郎宛書簡他〕紹介(1) 賀古鶴所より緒方収二郎あて書簡 : 明治初期医学事情」『適塾』第31号、適塾記念会、1998年、99-135頁、ISSN 0916-4030 
  • 吉田悦志「『風俗画報』を散策する」『明治大学図書館紀要』第3巻、明治大学図書館紀要編集委員会、1999年1月25日、124-125頁、ISSN 1342-808XNCID 120001439601識別子"120001439601"は正しくありません。2018年3月27日閲覧 
  • 島内 景二、電気通信大学[編]「歌人としての賀古鶴所―「鴎外の親友」の文学的素養」『電気通信大学紀要』第16巻1 (通号: 31)、電気通信大学、2003年7月31日、55-82頁、ISSN 0915-0935OCLC 51800736442018年3月28日閲覧 
  • {{cite journal|和書|author1=沢井清|title=鴎外の友人-賀古鶴所|journal=宮城学院女子大学研究論文集|issn= *木村繁「森鷗外の親友 軍医・耳科医たる賀古鶴所」『第19回足立医学会論文集』2004年2月14日。 
  • 夏目漱石ほか、日本近代文学館[編]「1章 世間も真ノ開化ニハなり兼候様子也(成島柳北)―福地桜痴から賀古鶴所まで(幕末‐)」『明治の文人たち : 候文と言文一致体』1号〈日本近代文学館資料叢書 : 第2期 . 文学者の手紙〉、2008年。ISBN 9784891779795NCID BA85512376 
  • 木村 繁「耳鼻咽喉科学のパイオニア 日本編2 賀古鶴所」『JOHNS』第26巻第9号、2010年8月。 
  • 山崎光夫「4 (ゆかりの人びと)」『明治二十一年六月三日 : 鷗外「ベルリン写真」の謎を解く』講談社、2012年。ISBN 9784062177191NCID BB09815398  - 『大塚薬報』連載『大塚薬報』2007年10月号から2010年6月号の初出に加筆[1]
  • “[http://moriogai-kinenkan.jp/uploads/fckeditor/uid000001_20161211113821b76c1495.pdf 平成28(2016)年度コレクション展

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」]” (2016年). 2018年3月28日閲覧。

  • 森鴎外、賀古鶴所、文京区立森鴎外記念館[企画・編集]『賀古鶴所』 1巻、文京区立森鴎外記念館〈森鴎外宛書簡集〉、2017年、141頁。 NCID BB23889179  - 二人が交わした書簡250通以上より文京区立森鴎外記念館所蔵分の解説。同館で2016年12月9日から2017年1月29日に「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」展を開催。
  1. ^ 山崎光夫 (2007). “森鷗外と医学留学生たち ー日本近代医学の源流”. 大塚薬報 (鳴門: 大塚製薬). ISSN 0030669X. NCID AN00032015.