「エラトステネス」の版間の差分

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「生涯」の節を w:en:Eratosthenes (09:29, 3 Feb. 2011) より一部翻訳・追記。Walkup (2005) に基づき「地球の大きさ」節を追記・修正。
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'''エラトステネス'''({{Lang|el|Ερατοσθένης}}, Eratosthenes, [[紀元前275年]] - [[紀元前194年]])は、[[ヘレニズム]]時代の[[エジプト]]で活躍した[[ギリシャ人]]の学者。業績は[[文献学]]、[[地理学]]をはじめヘレニズム時代の学問の多岐に渡るが、特に[[数学]]と[[天文学]]の分野で後世に残る大きな業績を残した。
'''エラトステネス'''({{Lang|el|Ερατοσθένης}}, Eratosthenes, [[紀元前275年]] - [[紀元前194年]])は、[[ヘレニズム]]時代の[[エジプト]]で活躍した[[ギリシャ人]]の学者であり、[[アレクサンドリア図書館]]を併設する研究機関[[ムセイオン]]の館長を務めた。業績は[[文献学]]、[[地理学]]をはじめヘレニズム時代の学問の多岐に渡るが、特に[[数学]]と[[天文学]]の分野で後世に残る大きな業績を残した。


[[地球]]の大きさを初めて測定した人物として、また[[素数]]の判定法である[[エラトステネスの篩]]を発明したことで知られる。その業績から「第2の[[プラトン]]」とも呼ばれた。また「β」(ベータ)ともあだ名されている。その由来は、「世界で2番目に物事をよく知っている人」という意味であるらしい。ここでは1番の人は「α」(アルファ)と呼ばれることになる<ref>カール・セーガン「コスモス 上」による。</ref>。
[[地球]]の大きさを初めて測定した人物として、また[[素数]]の判定法である[[エラトステネスの篩]](ふるい)を発明したことで知られる。その業績から「第2の[[プラトン]]」とも呼ばれた。また「β」(ベータ)ともあだ名されている。その由来は、「世界で2番目に物事をよく知っている人」という意味であるらしい。ここでは1番の人は「α」(アルファ)と呼ばれることになる<ref>カール・セーガン「コスモス 上」による。</ref>。


==生涯==
[[リビア]]の[[キュレネ]]に生まれて[[アテネ]]で教育を受け、[[プトレマイオス朝]]が[[アレクサンドリア]]に建てた研究機関[[ムセイオン]]の館長を務め、この地で没している。ムセイオンはミュージアム (museum) の語源となった施設であり、[[アレクサンドリア図書館]]が併設されていた。
現在の[[リビア]]にある[[キュレネ]]に生まれた。 アレクサンドリアで教育を受け、また数年の間[[アテネ]]でも学んだとされる。エラトステネスは、古代における卓越した科学者のひとりである[[アルキメデス]]の親しい友人であり、アルキメデスの著書『方法』 (''[[:en:The Method of Mechanical Theorems|The Method of Mechanical Theorems]]'') はエラトステネスに宛てて書かれている。 エラトステネス自身も数学および科学において重要な功績をあげている。

紀元前255年ごろには初の[[天球儀]]を作成した。 [[クレオメデス]]の『天体の回転運動について』によれば、紀元前240年ごろに、アレクサンドリアとシエネ(現在の[[アスワン]])のそばのエレファンティン島 ([[:en:Elephantine|Elephantine]]) とでの夏至の正午の太陽高度の知識を元に地球の全周を計算している。 この地球の大きさの測定に関してエラトステネス自身の著述は残されていないが、クレオメデスを初め、[[ストラボン]]、[[クラウディオス・プトレマイオス]]など多くの後世の学者によって言及されている<ref>Walkup (2005) ''The Basic Problem.''</ref>。

紀元前236年、[[プトレマイオス3世]]によって[[ロードスのアポローニオス]]の後任としてアレクサンドリア図書館の館長に任命され、少なくとも紀元前204年までその地位にあった。 紀元前195年には目が不自由となり、翌年82歳で没した。


== 地球の大きさ ==
== 地球の大きさ ==
[[ファイル:Mappa di Eratostene.jpg|240px|right|thumb|19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図。]]
[[ファイル:Eratosthenes.svg|240px|right|thumb|エラトステネスによる地球の大きさの測定。シエネ (S) で太陽が真上にくる日の同経度のアレクサンドリア (A) での影が作る角度 ''φ'' は、地球上での緯度の差に等しく、両地点の距離 ''δ'' がわかれば地球の大きさが求められる。]]
エラトステネスの有名な地球の大きさの測定は、[[経緯度]]を用いて距離を正確に表そうとした地図の作成に端を発している。 エラトステネスは、図書館で入手できた膨大な情報を元に、当時の世界地図の改良を試み、[[ロードス]]の街を基準に主たる緯線と経線を引いた。 この地図は古代において長い間最高の権威を持つものとされた。 この地図で基準となった経線はロードスから南に、エラトステネスのいたアレクサンドリア、そしてナイル川上流のシエネを抜けるとされていた<ref>Walkup (2005) ''Meridian of Alexandria and Syene.''</ref>。

[[古代ギリシア]]においては、場所によって[[北極星]]の高さが異なることなどから{{要出典|date=2011年02月|title=この節で以下典拠とした van Helden (1985) に依拠しない記述であることを明確化するため要出典を追加}}、紀元前4世紀ごろより大地が[[球]]形をしており、宇宙が幾重もの球殻に取り囲まれているという説が唱えられるようになっていた。 その後[[天動説]]として体系化されていくこの考えは、その著作は現存していないものの後世の引用から[[クニドス]]の[[エウドクソス]]が始祖であると一般に見なされている。 この宇宙観では水、大気、火、天体が順に同心の球殻をなしていると見なされ、地球は天体の球殻([[天球]])に比べ点と見なされるほど小さいものと考えられた。 このため、太陽からの光は場所によらずほぼ平行線として降り注ぐものとされた<ref>van Helden (1985) pp.4&ndash;5.</ref>。
[[古代ギリシア]]においては、場所によって[[北極星]]の高さが異なることなどから{{要出典|date=2011年02月|title=この節で以下典拠とした van Helden (1985) に依拠しない記述であることを明確化するため要出典を追加}}、紀元前4世紀ごろより大地が[[球]]形をしており、宇宙が幾重もの球殻に取り囲まれているという説が唱えられるようになっていた。 その後[[天動説]]として体系化されていくこの考えは、その著作は現存していないものの後世の引用から[[クニドス]]の[[エウドクソス]]が始祖であると一般に見なされている。 この宇宙観では水、大気、火、天体が順に同心の球殻をなしていると見なされ、地球は天体の球殻([[天球]])に比べ点と見なされるほど小さいものと考えられた。 このため、太陽からの光は場所によらずほぼ平行線として降り注ぐものとされた<ref>van Helden (1985) pp.4&ndash;5.</ref>。


[[ファイル:Eratosthenes.svg|240px|right|thumb|エラトステネスによる地球の大きさの測定。シエネ (S) で太陽が真上にくる日の同経度のアレクサンドリア (A) での影が作る角度 ''φ'' は、地球上での緯度の差に等しく、両地点の距離 ''δ'' がわかれば地球の大きさが求められる。]]
エラトステネスは、シエネ(現在の[[アスワン]])では[[夏至]]の日に陽光が井戸の底まで届くこと、つまり南中高度が 90°となる([[北回帰線]]上に位置する)ことを伝え聞き、このことにより地球の大きさを計算できることに気付いた。アレクサンドリアでは夏至の日に垂直に立てた棒の影が、円の全長の1/50となることを確かめ、この差がシエネとアレクサンドリアの[[緯度]]の差に基づくものとみなした。さらにシエネとアレクサンドリアの距離を当時の単位で5000[[スタディオン]]と見積もり、比率計算で地球の全周は 5000×50、すなわち 250&nbsp;000 スタディオンと求めた<ref>van Helden (1985) p.5.</ref>。
エラトステネスは図書館で学ぶうちに、シエネでは[[夏至]]の日に陽光が井戸の底まで届くこと、つまり南中高度が 90°となる([[北回帰線]]上に位置する)ことを知り<ref>Walkup (2005) ''The Basic Problem,'' ''Meridian of Alexandria and Syene.''</ref>、このことにより地球の大きさを計算できることに気付いた。アレクサンドリアでは夏至の日に垂直に立てた棒の影が、太陽の南中時に円の全長の1/50となることを確かめ、この差がシエネとアレクサンドリアの[[緯度]]の差に基づくものとみなした<ref>van Helden (1985) p.5.</ref>。

クレオメデスによれば、エラトステネスは、シエネとアレクサンドリアの距離を当時の単位で5000[[スタディオン]]と見積り、ここから比率計算で地球の全周は 50×5000、すなわち 250&nbsp;000 スタディオンと求めた。 一方、エラトステネスを伝える他の多くの著者は、252&nbsp;000 スタディオンという値を与えている。 多くの研究者は後者の値をエラトステネスが元々の値にさらに2000スタディオンを加えて修正を行ったためだと考えている。 その理由は明らかではないが、正確性より実用性を重んじたため、単に当時用いられていた円周の60分割単位(すなわち角度の 6°単位)あたりの距離を切りよく4200スタディオンとするためであったという説がある<ref>Walkup (2005) ''Eratosthenes' Correction.''</ref>。 また、シエネとアレクサンドリアとの距離は直接にはエラトステネスが作成した地図から得たものと考えられるが、それが元々どのようにもたらされた値であるかについてはわかっていない。 しかしストラボンはナイルが毎年氾濫を起し地形を変えるために、エジプトでは専門の歩行者を使って毎年繰り返し距離の測定を行っていたことを記述している<ref>Walkup (2005) ''Distance from Alexandria to Syene.''</ref>。

このエラトステネスが求めた地球の大きさの値が現在の単位でどれだけであるかについては議論が分かれている。 スタディオンの大きさは時代や場所によって異なっており、エラトステネスが用いたスタディオンの現在の単位での値ははっきりしていない<ref>van Helden (1985) p.5.</ref>。 もっとも広く知られている天文学者[[デニス・ローリンズ]] ([[:en:Dennis Rawlins|Dennis Rawlins]]) の説では、1スタディオンは185[[メートル]]であるとされ、このとき 252&nbsp;000 スタディオンは地球の全周よりおよそ 17&nbsp;% 大きな 46&nbsp;250 [[キロメートル]]となる。 しかし歴史学者[[カール・フリードリヒ・レーマン=ハウプト]] ([[:de:Carl Ferdinand Friedrich Lehmann-Haupt|Carl Ferdinand Friedrich Lehmann-Haupt]]) は、スタディオンには少なくとも6種類のものがあったと主張している<ref>Walkup (2005) ''How Long Is a Stade?''</ref>。


スタディオンの大きさは時代や場所よっ異なっており、エラトステネスが用いたスタディオンの現在の単位での値は不明であるのの<ref>van Helden (1985) p.5.</ref>、1スタディオンをおよそ 160&ndash;200 [[メートル]]の範囲とすれば、エラトステネスが求めた地球の全周はおよそ 40&nbsp;000&ndash;50&nbsp;000 [[キロメートル]]の範囲にあることとなる。実際の地球の全周はほぼ 40&nbsp;000 キロメートルである。 地球が球体であり、かつ太陽光が平行線であるという前提ので、このエラトステネスの推論は幾何学的に正しいものであり、その精度の範囲内において得られた値もほぼ正しいものであったが、科学史家の[[オットー・ノイゲバウアー]] ([[:en:Otto E. Neugebauer|Otto Neugebauer]]) によれば、の値は「距離の『測定』も天文学的『観測』も大雑把な見積もり以上のものではなく、扱いやすい概数値として表されたものであることが明らか<!--It is clear that neither the 'measurements' of distances nor the astronomical 'observations' are more than crude estimates, expressed in convenient round numbers.-->」なものであった<ref>{{cite book
いずれても地球が球体であり、かつ太陽光が平行線であるという前提ので、このエラトステネスの推論は幾何学的に正しいものであり、その精度の範囲内において得られた値もほぼ正しいものであった科学史家の[[オットー・ノイゲバウアー]] ([[:en:Otto E. Neugebauer|Otto Neugebauer]]) によれば、元々この値は「距離の『測定』も天文学的『観測』も大雑把な見積もり以上のものではなく、扱いやすい概数値として表されたものであることが明らか<!--It is clear that neither the 'measurements' of distances nor the astronomical 'observations' are more than crude estimates, expressed in convenient round numbers.-->」なものであった<ref>{{cite book
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==参考文献==
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| author= Dutka, Jacques
| year= 1993
| title= Eratosthenes' measurement of the earth reconsidered
| journal= Archive for History of Exact Sciences
| volume= 46 | issue= 1 | pages= 55&ndash;66
| doi= 10.1007/BF00387726
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2011年2月7日 (月) 11:19時点における版

エラトステネス

エラトステネスΕρατοσθένης, Eratosthenes, 紀元前275年 - 紀元前194年)は、ヘレニズム時代のエジプトで活躍したギリシャ人の学者であり、アレクサンドリア図書館を併設する研究機関ムセイオンの館長を務めた。業績は文献学地理学をはじめヘレニズム時代の学問の多岐に渡るが、特に数学天文学の分野で後世に残る大きな業績を残した。

地球の大きさを初めて測定した人物として、また素数の判定法であるエラトステネスの篩(ふるい)を発明したことで知られる。その業績から「第2のプラトン」とも呼ばれた。また「β」(ベータ)ともあだ名されている。その由来は、「世界で2番目に物事をよく知っている人」という意味であるらしい。ここでは1番の人は「α」(アルファ)と呼ばれることになる[1]

生涯

現在のリビアにあるキュレネに生まれた。 アレクサンドリアで教育を受け、また数年の間アテネでも学んだとされる。エラトステネスは、古代における卓越した科学者のひとりであるアルキメデスの親しい友人であり、アルキメデスの著書『方法』 (The Method of Mechanical Theorems) はエラトステネスに宛てて書かれている。 エラトステネス自身も数学および科学において重要な功績をあげている。

紀元前255年ごろには初の天球儀を作成した。 クレオメデスの『天体の回転運動について』によれば、紀元前240年ごろに、アレクサンドリアとシエネ(現在のアスワン)のそばのエレファンティン島 (Elephantine) とでの夏至の正午の太陽高度の知識を元に地球の全周を計算している。 この地球の大きさの測定に関してエラトステネス自身の著述は残されていないが、クレオメデスを初め、ストラボンクラウディオス・プトレマイオスなど多くの後世の学者によって言及されている[2]

紀元前236年、プトレマイオス3世によってロードスのアポローニオスの後任としてアレクサンドリア図書館の館長に任命され、少なくとも紀元前204年までその地位にあった。 紀元前195年には目が不自由となり、翌年82歳で没した。

地球の大きさ

19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図。

エラトステネスの有名な地球の大きさの測定は、経緯度を用いて距離を正確に表そうとした地図の作成に端を発している。 エラトステネスは、図書館で入手できた膨大な情報を元に、当時の世界地図の改良を試み、ロードスの街を基準に主たる緯線と経線を引いた。 この地図は古代において長い間最高の権威を持つものとされた。 この地図で基準となった経線はロードスから南に、エラトステネスのいたアレクサンドリア、そしてナイル川上流のシエネを抜けるとされていた[3]

古代ギリシアにおいては、場所によって北極星の高さが異なることなどから[要出典]エラー: 「2011年02月」は認識しません。「yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、紀元前4世紀ごろより大地が形をしており、宇宙が幾重もの球殻に取り囲まれているという説が唱えられるようになっていた。 その後天動説として体系化されていくこの考えは、その著作は現存していないものの後世の引用からクニドスエウドクソスが始祖であると一般に見なされている。 この宇宙観では水、大気、火、天体が順に同心の球殻をなしていると見なされ、地球は天体の球殻(天球)に比べ点と見なされるほど小さいものと考えられた。 このため、太陽からの光は場所によらずほぼ平行線として降り注ぐものとされた[4]

エラトステネスによる地球の大きさの測定。シエネ (S) で太陽が真上にくる日の同経度のアレクサンドリア (A) での影が作る角度 φ は、地球上での緯度の差に等しく、両地点の距離 δ がわかれば地球の大きさが求められる。

エラトステネスは図書館で学ぶうちに、シエネでは夏至の日に陽光が井戸の底まで届くこと、つまり南中高度が 90°となる(北回帰線上に位置する)ことを知り[5]、このことにより地球の大きさを計算できることに気付いた。アレクサンドリアでは夏至の日に垂直に立てた棒の影が、太陽の南中時に円の全長の1/50となることを確かめ、この差がシエネとアレクサンドリアの緯度の差に基づくものとみなした[6]

クレオメデスによれば、エラトステネスは、シエネとアレクサンドリアの距離を当時の単位で5000スタディオンと見積り、ここから比率計算で地球の全周は 50×5000、すなわち 250 000 スタディオンと求めた。 一方、エラトステネスを伝える他の多くの著者は、252 000 スタディオンという値を与えている。 多くの研究者は後者の値をエラトステネスが元々の値にさらに2000スタディオンを加えて修正を行ったためだと考えている。 その理由は明らかではないが、正確性より実用性を重んじたため、単に当時用いられていた円周の60分割単位(すなわち角度の 6°単位)あたりの距離を切りよく4200スタディオンとするためであったという説がある[7]。 また、シエネとアレクサンドリアとの距離は直接にはエラトステネスが作成した地図から得たものと考えられるが、それが元々どのようにもたらされた値であるかについてはわかっていない。 しかしストラボンはナイルが毎年氾濫を起し地形を変えるために、エジプトでは専門の歩行者を使って毎年繰り返し距離の測定を行っていたことを記述している[8]

このエラトステネスが求めた地球の大きさの値が現在の単位でどれだけであるかについては議論が分かれている。 スタディオンの大きさは時代や場所によって異なっており、エラトステネスが用いたスタディオンの現在の単位での値ははっきりしていない[9]。 もっとも広く知られている天文学者デニス・ローリンズ (Dennis Rawlins) の説では、1スタディオンは185メートルであるとされ、このとき 252 000 スタディオンは地球の全周よりおよそ 17 % 大きな 46 250 キロメートルとなる。 しかし歴史学者カール・フリードリヒ・レーマン=ハウプト (Carl Ferdinand Friedrich Lehmann-Haupt) は、スタディオンには少なくとも6種類のものがあったと主張している[10]

いずれにしても地球が球体であり、かつ太陽光が平行線であるという前提の元で、このエラトステネスの推論は幾何学的に正しいものであり、その精度の範囲内において得られた値もほぼ正しいものであった。 科学史家のオットー・ノイゲバウアー (Otto Neugebauer) によれば、元々この値は「距離の『測定』も天文学的『観測』も大雑把な見積もり以上のものではなく、扱いやすい概数値として表されたものであることが明らか」なものであった[11]。 なお、地球の大きさの実質的な最初の測定は10世紀アラビアの天文学者アル=ビールーニーによって行われている[12]

エラトステネスの篩

エラトステネスの考案したとされる素数判定の方法で、(ふるい)のように数表を用意して合成数を逐次消去していくことにより素数の一覧を得る手法として広く知られている。アルゴリズムの例題としても有名。

関連項目

出典・注釈

  1. ^ カール・セーガン「コスモス 上」による。
  2. ^ Walkup (2005) The Basic Problem.
  3. ^ Walkup (2005) Meridian of Alexandria and Syene.
  4. ^ van Helden (1985) pp.4–5.
  5. ^ Walkup (2005) The Basic Problem, Meridian of Alexandria and Syene.
  6. ^ van Helden (1985) p.5.
  7. ^ Walkup (2005) Eratosthenes' Correction.
  8. ^ Walkup (2005) Distance from Alexandria to Syene.
  9. ^ van Helden (1985) p.5.
  10. ^ Walkup (2005) How Long Is a Stade?
  11. ^ Neugebauer, Otto (1975). A History of Ancient Mathematical Astronomy. Springer-Verlag. pp. p.653  van Helden (1985) p.166.
  12. ^ van Helden (1985) p.166.

参考文献

  • van Helden, Albert (1985). Measuring the Universe. University of Chicago Press. ISBN 0-226-84881-7 
  • Walkup, Newlyn (2005年). “Eratosthenes and the Mystery of the Stades”. Math DL: The MAA Mathematical Sciences Digital Library. The Mathematical Association of America. 2011年2月7日閲覧。

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