遠藤慶利
表示
遠藤慶利像(乗性寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長14年4月8日(1609年5月11日) |
死没 | 正保3年6月28日(1646年8月9日) |
改名 | 三郎四郎、慶重、慶利 |
戒名 | 乗雲至誠院(宗雲) |
官位 | 内蔵助、従五位下伊勢守、但馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 美濃国八幡藩藩主 |
氏族 | 宇多源氏 三木姉小路氏流 森氏→平氏 良文流千葉支流 遠藤氏 |
父母 |
父:三木直綱、母:遠藤慶隆の娘・清洲 養父:遠藤慶隆 |
妻 | 正室:板倉重宗の娘 |
子 | 常友、常昭、常紀、女子(小笠原貞信室) |
遠藤 慶利(えんどう よしとし)は、美濃国八幡藩の第2代藩主。三上藩遠藤家2代。室は板倉重宗の娘[1][2]。はじめ慶重と名乗る[1][2]。
生涯
[編集]慶長14年(1609年)、三木直綱の次男として八幡で生まれた[1][2]。幼名は三郎四郎とも内蔵助ともいった[2][1]。母は遠藤慶隆の娘[1][2]。
外祖父の遠藤慶隆には嫡子・遠藤慶勝がいたが、大坂冬の陣の際に発病し、翌年に京都で病死した。慶隆には他に男子がなかったため、慶利が養嗣子とされた。
寛永2年(1625年)9月22日、従五位下伊勢守に叙任する[1][2]。同9年(1632年)8月26日、慶隆の死去により家督を継ぐ[1][3]。
寛永11年(1634年)、将軍・徳川家光の上洛に供奉する[4][1]。のち但馬守となる[1][4]。同13年(1636年)12月、大磯で朝鮮通信使の接待役を務めた[4]。同16年(1639年)、用木材1000本を課せられ、郡内で伐採し、納めた[4]。同20年(1643年)、大垣と名古屋間の警固伝馬の督務につく[4]。正保元年(1644年)秋には駿府在番を命じられた[4]。
正保3年(1646年)6月28日、江戸において38歳で死去した[4][1]。乗雲至誠院と号した[1](「東家遠藤家記」では宗雲)[4]。