青山幸道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
青山幸道
時代 江戸時代中期
生誕 享保10年8月5日1725年9月11日
死没 安永8年10月30日1779年12月7日
別名 主計
戒名 歓喜院殿義天喬山大居士
墓所 東京都港区南青山長青山寶樹寺梅窓院浄土宗
官位 従五位下大膳亮大蔵少輔大和守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
丹後宮津藩主→美濃郡上藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸秀
兄弟 金次郎、藤七、幸道幸篤幸充
忠高相馬恕胤正室、幸弼
正室:松平光慈[1]
幸完(三男)、幸卓(四男)、
幸賢(五男)、妻木頼功(六男)、
秋田倩季継室、青山幸発正室

青山 幸道(あおやま よしみち)は、江戸時代中期の大名丹後国宮津藩2代藩主、美濃国郡上藩初代藩主。郡上藩青山家5代。

略歴[編集]

享保10年(1725年)、宮津藩初代藩主・青山幸秀の三男として誕生。庶子であったが、同年に弟で嫡男・幸篤が病弱を理由で廃嫡されたため、延享元年(1744年)5月に世子となった。同年10月晦日、父の死去により跡を継ぎ宮津藩主となる。同年12月16日、従五位下大膳亮に叙任[2]

宝暦8年(1758年)12月27日に美濃郡上藩に移封される。宝暦10年(1760年)6月3日、大蔵少輔に遷任。宝暦13年(1763年)12月、大和守に転任。藩政においては、前藩主の金森氏による悪政を正すため、検地や法令制定などを行なって、藩政の安定化を図った。しかし安永2年(1773年)、飛騨国大原騒動が起こると、厳しく弾圧してしまったために領民の恨みを買ったといわれている。

安永4年(1775年)11月11日、長男・幸完に家督を譲って隠居し、安永8年(1779年)10月晦日に死去した。享年55。なお、東京都の青山地区は、郡上藩の江戸屋敷が存在したことから、そう呼ばれるようになったと言われる。

脚注[編集]

  1. ^ 異説として松平光徳
  2. ^ 任官前には主計を称している。

出典[編集]

  • 児玉幸多監修、新田完三編「内閣文庫蔵 諸侯年表」東京堂出版 1984年6月発行