観泉寺
観泉寺 | |
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山門 | |
所在地 | 東京都杉並区今川二丁目16番1号 |
位置 | 北緯35度43分2.96秒 東経139度36分26.37秒 / 北緯35.7174889度 東経139.6073250度座標: 北緯35度43分2.96秒 東経139度36分26.37秒 / 北緯35.7174889度 東経139.6073250度 |
山号 | 寶珠山[1] |
院号 | 本井院(現在公称していない) |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来[2] |
創建年 | 慶長2年(1597年) |
開山 | 鉄叟雄鷟[1] |
開基 | 今川氏真(中興)[2] |
中興 | 今川直房の姉[2] |
正式名 | 寶珠山觀泉禪寺 |
文化財 | 今川氏累代墓(都旧跡) |
法人番号 | 8011305000288 |
観泉寺(かんせんじ)は、東京都杉並区今川二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は宝珠山。
概要
[編集]戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺である。境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されている。
歴史
[編集]慶長2年(1597年)9月、中野にある成願寺の住職・鉄叟雄鷟によって、多摩郡下井草(上井草村八町 除地)に創建された。当初は観音寺と称していた[2]。
元和5年(1619年)、大友義親が没した。義親には子がなく大友家は断絶となり、その妻(今川範以の三女)は実家に戻ったのち剃髪して観音寺に仕えた。正保2年(1645年)、彼女の弟にあたる今川直房が当地一帯の領主となった。直房は観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を観泉寺と改めた。ただし、移転と改称の正確な時期はわからない。慶安2年(1649年)には幕府より観泉寺に朱印状が与えられ[3]、10石の寺領に関する年貢・諸役を免除されている。
寛文2年(1662年)、直房は市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、万昌院にあった祖父今川氏真と母(吉良義安の娘)の墓を観泉寺に移転し、今川氏真を観泉寺の開基とした。なお、万昌院は現在中野区に移転し万昌院功運寺となっている。
1763年に本堂などが焼失したが本堂は翌1764年に再建された。
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本堂
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門前にある石碑
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都旧跡に指定されている今川氏累代の墓を示す石碑
今川氏と観泉寺
[編集]今川氏は、室町時代・戦国時代は駿河国(現静岡県)などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのち没落した。義元の子今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から当地(井草村)を含む新たな知行地を与えられた。以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。
江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。
今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名「今川」の由来となっている。
史跡
[編集]施設
[編集]当寺院が母体となって、隣接してある「観泉寺幼稚園」を運営している。
アクセス
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 新編武蔵風土記稿 上井草村.
- ^ a b c d e f 杉並区公式ホームページ.
- ^ 慶安2年10月17日徳川家光朱印状写(杉並区立郷土博物館 1995, p. 6)
参考文献
[編集]- 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
- 杉並区立郷土博物館『企画展 今川氏と杉並の観泉寺 観泉寺所蔵文書を中心として』杉並区立郷土博物館、1995年。
- 「上井草村 観泉寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ123多磨郡ノ35、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763995/18。
- “3 観泉寺 【寺院】(今川2丁目16番1号)”. 杉並区公式ホームページ (2018年1月18日). 2021年1月17日閲覧。