藤原公清
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 仁安元年(1166年) |
死没 | 安貞2年10月11日(1228年11月9日) |
別名 | 号:八条、風早二位 |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 | 父:滋野井実国、母:源雅綱の娘 |
兄弟 |
滋野井公時、公清、賢忍、公全、粟田口忠良室 養兄弟:藤原公佐 |
妻 | 源資賢の娘 |
子 | 実嗣、八条実俊、河鮱実隆、実誉、実秀、実秋、公方、実増、菊池能隆室 |
藤原 公清(ふじわら の きんきよ、旧字体:藤󠄁原 公󠄁淸)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。権大納言・滋野井実国の次男。八条または風早二位と号した。官位は従二位・参議。左中将とも。
経歴
[編集]嘉応2年(1170年)に5歳で従五位下に叙爵。治承3年(1179年)に昇殿を聴され、治承4年(1180年)左衛門佐に任ぜられた。養和2年(1182年)従五位上に昇叙。
元暦2年(1185年)従四位下・近江権介に叙任。左近衛少将を経て、文治6年(1190年)には従四位上・駿河介に叙任された。建久4年(1193年)に左近衛少将・平光盛と共に除籍されているが詳細は不明。建久9年(1198年)3月に石清水臨時祭の舞人に奉仕し[1]、同年11月には正四位下・近江介と順調に昇進。正治2年(1200年)東宮昇殿を聴され、正治3年(1201年)左近衛権中将に転じた。同年11月に行われた賀茂臨時祭では祭使を務めた[2]。
建仁2年(1202年)正月加賀介を兼任し、同年3月の後鳥羽上皇の御幸の際には沓を献じている[3]。建仁3年(1203年)に従三位に叙せられて公卿に列した。建永2年(1207年)には正三位・参議に叙任されるが、その後の昇進は停滞する。
建暦元年(1211年)に参議を辞退して従二位に叙せられる。貞応2年(1223年)12月に出家して安貞2年(1228年)に薨去。享年63。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 嘉応2年(1170年)正月5日:従五位下に叙す(女御琮子給)。
- 治承3年(1179年)正月-日:昇殿を聴す。
- 治承4年(1180年)正月30日:左衛門佐に任ず。
- 養和2年(1182年)3月8日:従五位上に叙す(府労)。
- 寿永2年(1183年)正月2日:服解(父)。2月11日:復任。
- 元暦2年(1185年)正月24日:近江権介を兼ぬ。6月18日:従四位下に叙す。
- 文治4年(1188年)8月―日:除籍。
- 文治5年(1189年)7月10日:左近衛少将に任ず。
- 文治6年(1190年)正月6日:従四位上に叙す。2月2日:駿河介を兼ぬ。
- 建久4年(1193年)8月―日:除籍。
- 建久9年(1198年)11月9日:近江介を兼ぬ。11月21日:正四位下に叙す(大嘗會国司賞)。
- 正治2年(1200年)11月21日:東宮昇殿を聴す。
- 正治3年(1201年)正月29日:左近衛権中将に転ず。
- 建仁2年(1202年)正月21日:加賀介を兼ぬ。
- 建仁3年(1203年)10月24日:従三位に叙す。
- 建永2年(1207年)正月7日:正三位に叙す。4月10日:参議に任ず。
- 建暦元年(1211年)10月11日:職を辞して従二位に叙す。
- 貞応2年(1223年)12月―日:出家。
- 安貞2年(1228年)10月11日:薨去。享年63。
系譜
[編集]- 父:滋野井実国
- 母:源雅綱の娘
- 妻:源資賢の娘
- 男子:八条実俊(?-1237)
- 妻:家女房(?-1229)
- 男子:河鰭実隆(1203-1270)
- 生母不明の子女
- 男子:藤原実嗣
- 男子:実誉
- 男子:実秀
- 男子:実秋
- 男子:公方
- 男子:実増
- 女子:菊池能隆室