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荏原村 (愛媛県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
えばらむら
荏原村
廃止日 1956年9月30日
廃止理由 新設合併
荏原村坂本村久谷村
現在の自治体 松山市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 四国地方
都道府県 愛媛県
温泉郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 5,673
(1955年)
隣接自治体 浮穴村重信町坂本村砥部町
荏原村役場
所在地 愛媛県温泉郡荏原村大字東方
座標 北緯33度46分06秒 東経132度48分55秒 / 北緯33.76828度 東経132.81536度 / 33.76828; 132.81536 (荏原村)座標: 北緯33度46分06秒 東経132度48分55秒 / 北緯33.76828度 東経132.81536度 / 33.76828; 132.81536 (荏原村)
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荏原村(えばらむら)は、1956年昭和31年)まで愛媛県下浮穴郡のち温泉郡にあったであり、現在の松山市の南部に位置する。

地理

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現在の松山市の南部の農村地帯。重信川の左岸、南部と、重信川支流の一つである御坂川(みさかがわ)の流域。窪野に源流を発する御坂川が南北に貫流し、両岸に水田が広がる。

地名の由来
荏原という地名は平安期から郷名として見られ、『和名抄』による浮穴郡4郷の一つ。南北朝期には合戦の舞台となった会原城があった。

地域

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津吉(つよし)、中野、河原、東方(ひがしかた)、小村、上野、西野、恵原町(えばらまち)の8つの大字があった。いずれも明治の村制発足前からの旧村であり、久谷村になっても大字として存続した。

役場は大字東方に置かれ、荏原村閉村後も久谷村本庁舎として1967年(昭和42年)まで使用された[1]

歴史

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藩政期

明治以降

荏原村の系譜
(町村制実施以前の村) (明治期)
津吉村  ━━┓
中野村  ━━┫
河原村  ━━┫
東方村  ━━╋━━━━━ 荏原村   ━━━┓ 
小村   ━━┫              ┃(昭和31年9月30日合併)
上野村  ━━┫              ┣━━ 久谷村 ━━┓
西野村  ━━┫              ┃         ┃
恵原町村 ━━┛               ┃         ┃
              坂本村   ━━━┛     昭和43年10月25日松山市に編入

(注記)坂本村成立以前の系譜については、同村の記事を参照のこと。

行政

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役場 
1915年(大正4年)竣工の荏原村役場は大正天皇御大典記念事業として大字東方町屋敷甲1518番地の心行寺跡に建てられた。玄関前には松山中学校道後村が移転する際に不要となった門柱と敷石が設置されていたが、1955年(昭和30年)に松山東高等学校からの申し出により松山東高内の明教館前に移設された。さらに敷石と役場北側の副門も1966年(昭和41年)に明教館前敷石および副門として移設された[1]

教育

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  • 荏原村立荏原小学校(閉村時)
  • 荏原村立荏原中学校(閉村時)

交通

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旧街道沿線、遍路道にもあたり、八坂寺がある。 森松から御坂峠に至る「土佐街道」が恵原町を抜けているため、明治以前は恵原地区が一番栄えていたため「町」を村の前に冠して「恵原町村」と呼ばれた。 遍路道もほぼ土佐街道にそっている。

名所・旧跡

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主な城郭・館
  • 荏原城跡
主な寺社
  • 大宮八幡神社(大字上野字今市)
  • 徳川神社(大字津吉字徳山)
  • 諏訪神社(大字恵原町)
  • 大蓮寺(大字東方)
  • 文殊院(大字恵原町)
  • 安楽寺(大字津吉)
  • 心行寺(大字東方)

出身・ゆかりのある人物

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脚注

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  1. ^ a b 『久谷村史』 265-267頁
  2. ^ a b 『久谷村史』 647頁

参考文献

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  • 久谷村史編纂委員会 『久谷村史』 1967年

関連項目

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