第六次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第六次イタリア戦争
イタリア戦争

カトー・カンブレジ条約の想像上の絵画。実際の締結では大使が署名した。
1551年 - 1559年
場所フランスフランドルイタリア地中海
結果 カトー・カンブレジ条約
衝突した勢力
フランス王国
原初同盟の旗 スイス傭兵
シエーナ共和国
オスマン帝国の旗 オスマン帝国
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
スペイン王国
イングランド王国の旗 イングランド王国
フィレンツェ公国
サヴォイア公国
指揮官

第六次イタリア戦争ハプスブルク・ヴァロワ戦争最後のイタリア戦争とも、1551年 - 1559年)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世の後を継いだアンリ2世が1551年に神聖ローマ皇帝カール5世に宣戦したことで始まった。アンリ2世はイタリアの再征服およびフランスのヨーロッパにおける権威の確立を目論んだが、最終的には失敗した。軍事的には火薬の重要性、砲撃によく耐える築城法、兵士の専業化(傭兵の衰退)などが明らかになった戦いである[1]

経過[編集]

地中海の戦い[編集]

ジェノヴァ出身の海軍提督アンドレア・ドーリアは1550年9月8日にカール5世の命令でマーディアを占領した。アンリ2世はハプスブルク家への対抗としてスレイマン1世と同盟した[2]。フランスは同盟を後ろ盾にして、ライン川左岸に侵攻し、一方でフランス=オスマン連合艦隊は南フランスを守備した[3]

1551年のオスマン帝国によるトリポリ包囲戦英語版は第六次イタリア戦争の序曲となった。時を同じくして、マルセイユに泊まっているフランスのガレー船はオスマン艦隊との合流を命じられた[4]。1552年、アンリ2世がカール5世を攻撃すると、オスマン帝国はガレー船100隻とガブリエル・ダラモン英語版率いるフランスのガレー船3隻を地中海西部に送った[5]。連合艦隊は南イタリアのカラブリア沿岸を荒らしまわり、レッジョを占領した[6]ポンツァ島の近くで起きたポンツァ島の戦い英語版ではこの連合艦隊がアンドレア・ドーリア率いる40隻のガレー船に勝利し、7隻を拿捕する結果となった。連合艦隊は翌年のコルシカ島侵攻英語版でアンドレア・ドーリアに再び勝利して島を占領した。それ以降も地中海でハプスブルク家領をたびたび攻撃し、1558年にはアンリ2世の要請でバレアレス諸島侵攻・占領英語版した[7]

陸上での戦い[編集]

1554年8月13日のランティの戦い英語版の後、ガスパール・ド・ソ英語版サン・ミシェル騎士団の騎士に叙するアンリ2世。

大陸では1552年にアンリ2世がドイツのプロテスタント諸侯とシャンボール条約英語版を結んで同盟し、次にロレーヌ三司教領ヴェルダンメストゥール)を占領、1554年に侵攻してきたハプスブルク軍をレンティの戦い英語版で撃退した。ドイツでは戦いを優勢で進めたフランスであったが、イタリアでは敗北が続いた。1553年に皇帝軍とフィレンツェ公国の軍に攻められていたシエーナ共和国の支援としてトスカーナを侵攻するも翌年のマルチャーノの戦い英語版ジャン・ジャコモ・メディチ英語版に敗北し、シエーナも1555年に陥落、後にコジモ1世を大公とするトスカーナ大公国の一部となった[8]

1556年2月5日、フェリペ2世アンリ2世の間でヴォーセル条約が締結され、フランシュ=コンテ地方をスペインに割譲したが、条約はすぐに破られた。

カール5世が1556年に退位してハプスブルク帝国をスペイン王フェリペ2世と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の間で分割すると、戦場はフランドルに移った。フェリペ2世はサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトと同盟してサン=カンタンの戦い英語版でフランスに勝利した。さらに優勢を拡大しようとイングランド王国を戦争に引き入れたがカレーが占領される結果に終わり(カレー包囲戦)、フランス軍は勢い余ってネーデルラントまで進軍してあたりを略奪した。

戦争はもうしばらく続くかと思われたが、その終わりは突如訪れた。1557年、スペインとフランスは相次いで破産を宣言した。さらにフランスはユグノーにも対処しなければならなかった[9]。その結果、アンリ2世はイタリアへの主張を全て放棄する平和条約を受諾し、フェルディナント1世とフェリペ2世もロレーヌの割譲に同意した[10]

結果と影響[編集]

講和[編集]

アンリ2世とモンゴムリ伯爵ガブリエル・ド・ロルジュの間の馬上槍試合。試合での事故によりアンリ2世は死亡。

カトー・カンブレジ条約アンリ2世フェリペ2世の間で1559年4月3日に署名された。条約はカンブレーの20キロ南東にあるカトー=カンブレジで締結された[11]。条約の定めにより、フランスはピエモンテサヴォワをサヴォイア公に、コルシカ島ジェノヴァ共和国にそれぞれ返還し、イングランドからカレー、神聖ローマ帝国から三司教領ヴェルダンメストゥール)を獲得、またサルッツォの併合を認められた[12]。スペインはフランシュ=コンテ地方を保持したほか、ミラノ公国ナポリ王国シチリア王国サヴォイア公国プレシディ領英語版への宗主権を全て認められ、さらにフィレンツェ公国ジェノヴァ共和国ほかイタリアの小国への絶大な影響力を持った。教皇もスペインの同盟者であり、イタリアの国でスペインの統制を受けなかったのはサヴォイアとヴェネツィア共和国のみとなる。スペインによるイタリア統制は18世紀初めのスペイン継承戦争まで続いた。またこの条約により60年の長きにわたったイタリア戦争に終止符が打たれた。

条約のもう一つの取り決めにより、サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトがアンリ2世の妹でベリー女公のマルグリット・ド・フランスと結婚し、フェリペ2世はエリザベート・ド・ヴァロワと結婚した[13]。アンリ2世はフェリペ2世結婚の祝宴会の一環で行われたモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合において、偶発的に右目を貫かれた。モンゴムリ伯の槍はアンリ2世の脳にまで達し、アンリ2世はこの傷が元で死亡した。

この条約はフランスにとってはそこそこに満足できる結果となった。1520年代と比べると講和の条件はずっと良く、神聖ローマ帝国と対等に扱われた上領土の拡大にも成功した。しかし、本来の目的であったイタリアの勢力均衡を変えることには失敗し、ハプスブルク家ヘゲモニーを崩せなかった。さらに、ユグノー戦争で一時大国の位から転落した。ハプスブルク家全体にとっては、戦争のせいで神聖ローマ帝国での地位が揺らぎ、カール5世の帝国がスペインとドイツとに二分されたことからマイナスとなった。一方スペインはイタリアに影響力を持つ唯一の大国になり、フランスの介入も失敗したため十分に満足いく結果と言えた。イングランドは特に得るところがない上にカレーを失い、大陸での唯一の領土が失ったことでその名声は地に落ちた。

軍事における影響[編集]

チャールズ・オマーンは、指揮官の無能と士気の低落により決定的な戦いが全くなく、ほとんどの攻撃は緩慢に行われたとしている。彼は双方とも傭兵を使いすぎ、そしてその頼りなさが露呈した結果となった、と主張している[14]。ハルは守備側が最先端の築城技術を使用したことにより、砲撃の効果が減退したとした。騎兵は突撃を捨てて火器を多く使用した。一方で守旧的な密集した隊形もいまだに多い。いずれにせよ、戦術的にはイタリア戦争以前の戦いより格段に先進なものとなっているであろう[15]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Charles Messenger, ed., Reader's Guide to Military History (2001) pp 635-36
  2. ^ Miller, p.2
  3. ^ The Cambridge History of Islam, p.328
  4. ^ The Mediterranean and the Mediterranean world in the age of Philip II by Fernand Braudel p.920- [1]
  5. ^ European warfare, 1494-1660 by Jeremy Black p.177
  6. ^ The History of England Sharon Turner, p.311
  7. ^ The Papacy and the Levant (1204-1571) by Kenneth M. Setton p.698ff
  8. ^ Charles W.C. Oman, A History of the Art of War in the Sixteenth Century (1937).
  9. ^ Elliott, J.H. (1968). Europe Divided: 1559–1598 (page 11). HarperCollins. ISBN 978-0-06-131414-8 
  10. ^ Oman, A History of the Art of War in the Sixteenth Century (1937).
  11. ^ Robert Jean Knecht, Catherine de Medici, (Longman, 1997), 54.
  12. ^ James Tracy, The Founding of the Dutch Republic, (Oxford University Press, 2008), 31.
  13. ^ Mark Konnert, Early Modern Europe: The Age of Religious War, 1559-1715, (University of Toronto Press, 2006), 122.
  14. ^ Oman, Charles W.C. A History of the Art of War in the Sixteenth Century (1937).
  15. ^ J. R. Hale, "Armies, navies and the art of war." in Elton ed., The New Cambridge Modern History: The Reformation 1520-1559 (1975) 2: 481-509.

参考文献[編集]

  • Baumgartner, Frederic J. Henry II, King of France 1547-1559 (Duke Univ Press, 1988).
  • Oman, Charles W.C. A History of the Art of War in the Sixteenth Century (1937).
  • Pepper, Simon, and Nicholas Adams. Firearms & fortifications: military architecture and siege warfare in sixteenth-century Siena (University of Chicago Press, 1986).