ウルビーノ戦争

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ウルビーノ戦争
イタリア戦争
1517年
場所ウルビーノ公国イタリア
結果 両者の和解
衝突した勢力
Urbino-Stemma.svg ウルビーノ公国
Flag of Most Serene Republic of Venice.svg ヴェネツィア共和国
Emblem of the Papacy SE.svg 教皇領
指揮官
Urbino-Stemma.svg フランチェスコ・マリーア1世
Flag of Most Serene Republic of Venice.svg フェデリーコ・ゴンザーガイタリア語版
Emblem of the Papacy SE.svg レオ10世
Emblem of the Papacy SE.svg フランチェスコ・デル・モンテ
Emblem of the Papacy SE.svg ロレンツォ2世・デ・メディチ
Emblem of the Papacy SE.svg ビッビエーナ枢機卿英語版

ウルビーノ戦争は、ウルビーノ公国の公位をめぐる1517年の戦争であり、イタリア戦争の一部である。

1508年から1516年までのカンブレー同盟戦争フランスヴェネツィアの勝利に終わった。前年に破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの機会に乗じて、敗北した教皇から公国を奪還する画策をはじめた。

1517年のはじめ、彼はヴェローナ城下で昔ヴェローナを包囲したヴェネツィア共和国の傭兵を雇った。5000人と1000の軍馬を得たフランチェスコ・マリーア1世はボッツォロ領主フェデリーコ・ゴンザーガイタリア語版とともにウルビーノへ進軍、1月23日にたどり着いた。そこでコンドッティエーレフランチェスコ・デル・モンテ率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。

教皇レオ10世はあわてて1万の軍勢を雇い、ロレンツォ2世・デ・メディチレンツォ・ダ・チェーリ英語版ジュリオ・ヴィテッリ英語版グイド・ランゴーニ英語版などのコンドッティエーレをウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日のモンドルフォ包囲戦で銃傷を負いトスカーナへ戻ってしまい、代役のビッビエーナ枢機卿英語版は無能で統率がうまくいかずポッジボンシで大敗、ペーザロまで撤退した。

形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗してヴェローナで雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナやウンブリアでの戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。条約に基づき、フランチェスコ・マリーア1世の破門は解かれ、彼は傭兵とともにマントヴァへの撤退を許された。また、15世紀のウルビーノ公フェデリーコ3世・ダ・モンテフェルトロが収集した蔵書もフランチェスコ・マリーア1世に帰属するものとされた。しかし、ウルビーノ公位の奪還には失敗し、ロレンツォ2世・デ・メディチは1519年に亡くなるまで公位を保持した。フランチェスコ・マリーア1世が公位に返り咲くのは、レオ10世が亡くなった1521年のことである。

この戦争は後に「黒旗のジョヴァンニ」として知られるジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの初戦である。このとき、彼は教皇軍を率いた。

参考文献[編集]

  • Rendina, Claudio (1994). I capitani di ventura. Newton Compton.