立花種次
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長9年(1604年)8月 |
死没 | 寛永7年3月29日(1630年5月11日) |
別名 | 弥七郎(通称) |
戒名 | 金剛院殿一叟全心大居士 |
墓所 | 福岡県大牟田市今山の紹運寺 |
官位 | 従五位下主膳正 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 筑後三池藩主 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花直次、母:筑紫広門の娘・養福院 |
兄弟 | 種次、種吉、政俊、忠茂、虎、種元 |
妻 | 正室:佐久間勝之の娘・青樟院 |
子 | 種長、種世、立花宗茂養女 |
立花 種次(たちばな たねつぐ)は、江戸時代前期の旗本、大名。筑後国三池藩の初代藩主。
略歴
[編集]江戸幕府旗本立花直次の長男として、慶長9年(1604年)8月に生まれた。高橋紹運は祖父。立花宗茂は伯父で、宗茂の養嗣子忠茂は異母弟にあたる。
元和3年(1617年)、父の死去により家督を継いで、5月3日、将軍徳川秀忠に初めて拝謁し、11月に常陸国柿岡領5,000石の遺領の継承を許された。
元和7年(1621年)1月10日、5,000石を加増されて合計1万石とされた上に、父の旧領である筑後国三池郡のうち1万石に移封された。これが三池藩となる。
元和8年(1622年)8月6日、父と同じ従五位下に叙された。
寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条城行幸のために徳川家光が上洛したのに従い、参内の供奉を務めた。
移封当初は宗茂の居城である柳川城下に屋敷を構えていたが、寛永4年(1627年)、三池郡内に陣屋を築き、これに移った。
寛永7年(1630年)3月29日に死去した。享年27。直次種次の二代に仕えた平塚増次が追腹を行った。
跡を長男の種長が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 青樟院 ー 佐久間勝之の娘
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 立花氏」『寛政重修諸家譜』 。