稲葉正休
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永17年(1640年) |
死没 | 貞享元年8月28日(1684年10月7日) |
墓所 | 東京都杉並区堀の内3丁目の宗延寺 |
官位 | 従五位下、石見守 |
幕府 | 江戸幕府御側衆→若年寄 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 美濃青野藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 |
父:稲葉正吉 母:太田資宗の娘 |
妻 | 正室:土屋数直の娘 |
稲葉 正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の旗本・大名。美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老・堀田正俊は従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。
生涯
[編集]明暦2年(1656年)、父・正吉が男色の事で家臣に刺殺され、その遺領を継いで美濃青野において5000石を領した。延宝2年(1674年)、小姓組番頭となって石見守に叙任された。延宝5年(1677年)に書院番頭、その後将軍近習を経て天和2年(1682年)、若年寄に就任し、加増されて青野藩1万2000石を領した。
天和3年(1683年)、水害に悩まされていた淀川に赴き、河村瑞賢の随伴による視察を行い「淀川治水策」をまとめる。治水費用として4万両の費用を計上するが、不審に感じた堀田正俊が別途、随行した瑞賢に問いただした所「半額の2万両でも可能」との意見を得た事から、正休は淀川の治水事業の任から外される事となる。
貞享元年(1684年)、江戸城中で堀田正俊を刺殺した(即死ではなく、正俊は医師の手当を受けた後、重体のまま自邸に運ばれ息を引き取る)。正休自身も同席していた老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに滅多斬りにされて殺され、稲葉家は改易処分となった。享年45。伯母の孫にあたる正俊を暗殺した理由については不明であるが、前年の淀川の治水工事の役目から外された件もあり、恨みによるものとも言われた。
正俊暗殺に当たって正休は、高名な刀鍛冶に数本の刀を特注し、試し斬りの末に一番出来のよいもの[1]を差して登城、邪魔が入りにくいよう御用部屋の入り口まで正俊を呼び出して一突きで殺した。後の赤穂事件に際して「このような手本があるのに浅野長矩が吉良義央を仕留め損ねたのは武士として不覚悟も甚だしい」という批評があり、当時の落首にもうたわれているという[2]。
逸話
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『世界人物逸話大事典』 角川書店