真田信安
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳4年8月18日(1714年9月26日) |
死没 | 宝暦2年4月25日(1752年6月7日) |
改名 | 小次郎、豊之助(幼名)→信安 |
戒名 | 覚性院殿幽山一玄大居士 |
墓所 | 神奈川県伊勢原市上粕屋盛徳寺 |
官位 | 従五位下豊後守、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 信濃松代藩主 |
氏族 | 真田氏 |
父母 | 父:真田信弘、母:藤田氏娘・冷台院 |
兄弟 | 幸詮、信安、柳生俊峯、真田繁信、本多忠盈、柳沢信鴻継室、一柳末栄継室 |
妻 |
正室:前田利章娘・典 伊東甚五右衛門娘・慈明院 |
子 | 幸弘、松浦政信正室、松平忠恕正室 |
真田 信安(さなだ のぶやす)は、江戸時代中期の大名。信濃国松代藩5代藩主。官位は従五位下・豊後守、伊豆守。
生涯
[編集]4代藩主・真田信弘の三男(四男とも)。
元文元年(1736年)3月1日、兄・幸詮の早世により嫡子となった。3月23日、将軍徳川吉宗に御目見する。12月16日、従五位下豊後守に叙任する。元文2年(1737年)2月18日、父で前藩主の信弘の跡を継いだ。松代藩ではこの頃、家老や家臣たちが不正を働いて財政は極度に悪化していた。寛延3年(1750年)には家臣がサボタージュを企てるという事件が発生するまでに至っていた。このような中、信安は勝手掛(財政担当官)に田村半右衛門を登用して藩財政改革に取りかかった。
この田村半右衛門は、播磨赤穂藩浅野家の家老だった大野知房の子・大野群右衛門だったとも言われる。半右衛門はまず、それまで不正を行なっていた家老や役人に対して、その罪の代償として御用金を何年かけても支払わせるようにした。次に百姓に対し、100石ごとに籾15俵を増税として課した。これに百姓らの不満は高まった。不正を行なった家老や家臣たちは、御用金のみが課せられ、それ以上の罰は与えられなかった。一方で咎のない百姓にも重い負担が課せられたのである。この結果、松代藩は4700両の蓄えができた。しかし、百姓の怒りがおさまらず、宝暦元年(1751年)には百姓一揆が発生する。信安もここに至って半右衛門を罷免して投獄し、獄死に追い込んだ。これを「田村騒動」という。
宝暦2年(1752年)に死去し、長男の幸弘が家督を相続した。
系譜
[編集]父母
- 真田信弘(父)
- 冷台院、冷厳院、藤田氏 ー 側室(母)
正室
- 典、匡章院 ー 前田利章の娘
側室
- 慈明院 ー 伊東甚五右衛門の娘
子女