柳生俊峯

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柳生 俊峯(やぎゅう としみね、享保4年(1719年) - 宝暦13年8月29日1763年10月6日))は、大和柳生藩の第7代藩主。

信濃松代藩主・真田信弘の四男。正室は牧野康重の娘。子に娘(柳生俊則正室)、娘(池田政朗正室)、娘(秋月種穀正室)。官位は従五位下、但馬守、備前守。幼名は亀之丞、采女。

享保18年(1733年)12月22日、先代藩主の柳生俊平の養嗣子となる。享保19年3月13日、将軍徳川吉宗御目見する。寛保2年(1742年)11月16日、俊平の隠居により跡を継いだ。同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。しかし、宝暦元年(1751年)12月12日、江戸藩邸の失火により処罰されている。宝暦13年(1763年)8月29日に死去し、跡を養嗣子の俊則が継いだ。

芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。左が俊峯の墓

法号は随転紹幽大心院。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺

系譜[編集]

注釈・出典[編集]