生田鹿之丞
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日[1] - 1955年〈昭和30年〉6月12日[2] )は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。
略歴・人物
[編集]1882年(明治15年)島根県松江市出身[1]。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった[1]。 第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業[3]。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任[4]。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭[5]。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる[6]。
1927年(昭和2年)4月、大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)の校長に就任(第7代[7])。大手前高女で8年半務め、1935年11月、大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)校長に就任した(第3代[8])。
1942年(昭和17年)4月、清水谷高女の同窓会「清友会」が設立した「清友学園高等女学校」の初代校長に就任(清友学園高女は太平洋戦争後の1948年4月1日、学制改革により新制の清友学園高等学校となる〈のちの大阪府立清友高等学校〉)。1953年1月30日、清友学園高校の校長を退職した。1955年(昭和30年)6月12日、死去。
女子教育の方針として、大手前高女では作詞した校歌(1928年制定)に象徴の『強き信念(まこと)』『高き理想』を掲げ[9]、清水谷高女では、清友学園高女の創立(1941年)にあたり『忠誠なる臣道、優越なる体位、真摯なる勤労、恭敬なる礼儀、醇厚なる情誼、堅固なる節義、温雅なる気品、至純なる母性』の八綱領で表現していた[2]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 「島根県人名鑑」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 大阪府立清友高等学校同窓会「占春会」同窓会報「占春会報」1978年(昭和53年)第9号
- ^ “「龍南会雑誌」紀念會詠草 : 文苑”. 第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)校友会誌「龍南会雑誌」 (1902年11月20日). 2020年11月29日閲覧。
- ^ 「敍任及辭令」官報明治43年(1910年)4月16日第8042号
- ^ 「敍任及辭令」官報大正3年(1914年)6月9日第556号
- ^ 「敍任及辭令」官報 大正6年(1917年)1月19日第1337号
- ^ “++大阪府立大手前高校同窓会 WEB金蘭会 About金蘭会++”. 大阪府立大手前高等学校同窓会「金蘭会」. 2020年11月29日閲覧。
- ^ 『清水谷百年史』(2001年〈平成13年〉)
- ^ “教育ビジョン・アドミッションポリシー ; 大阪府立大手前高等学校”. 大阪府立大手前高等学校. 2020年11月29日閲覧。
- ^ a b “国立公文書館デジタルアーカイブ”. 国立公文書館. 2020年11月29日閲覧。
関連項目
[編集]- 第五高等学校 (旧制) - 熊本大学
- 大分県立臼杵高等学校
- 愛媛県立宇和島東高等学校
- 秋田大学
- 大阪府立大手前高等学校
- 大阪府立清水谷高等学校 - 藤澤茂登一(第2代校長)、高柳清(第4代校長)、清友会