「ウィレム1世 (オランダ王)」の版間の差分
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|配偶者1 =[[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1774-1837)|フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]] |
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[[1813年]]にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」([[プリンス]])の称号を受けた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]失脚後の[[1815年]]、[[ウィーン会議]]により、[[18世紀]]まで共和制を布いていたオランダと[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の領土だった[[南ネーデルラント]]を併せて[[立憲君主制|立憲君主国]]オランダ王国([[ネーデルラント連合王国]])が成立すると、初代国王に即位した。また、[[ナッサウ家]]の古くからの所領であった[[ラインラント]]の[[ナッサウ]]、ディレンブルク、ディーツなどの所領が[[プロイセン王国|プロイセン]]領に併合されるのと引き換えに、[[ルクセンブルク大公]]を兼ねることとなった。 |
[[1813年]]にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」([[プリンス]])の称号を受けた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]失脚後の[[1815年]]、[[ウィーン会議]]により、[[18世紀]]まで共和制を布いていたオランダと[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の領土だった[[南ネーデルラント]]を併せて[[立憲君主制|立憲君主国]]オランダ王国([[ネーデルラント連合王国]])が成立すると、初代国王に即位した。また、[[ナッサウ家]]の古くからの所領であった[[ラインラント]]の[[ナッサウ]]、ディレンブルク、ディーツなどの所領が[[プロイセン王国|プロイセン]]領に併合されるのと引き換えに、[[ルクセンブルク大公]]を兼ねることとなった。 |
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ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。 |
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[ベルリン]]へ移住した。1841年に、長年の愛人アンリエット・ドートルモン(ベルギー人貴族でカトリック教徒)と貴賤結婚し、彼女にナッサウ伯爵夫人の称号を与えた。[[1843年]]に死去した。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年2月23日 (火) 02:13時点における版
ウィレム1世 Willem I | |
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オランダ国王 ルクセンブルク大公 | |
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在位 |
1815年3月16日 - 1840年10月7日 1839年4月19日 - 1840年10月7日(リンブルフ公) |
就任式 | 1815年3月30日 |
全名 |
Willem Frederik ウィレム・フレデリック |
出生 |
1772年8月24日 ネーデルラント連邦共和国、デン・ハーグ |
死去 |
1843年12月12日(71歳没) プロイセン王国、ベルリン |
埋葬 | オランダ、デルフト、新教会 |
配偶者 |
フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン アンリエット・ドートルモン |
子女 |
ウィレム2世 フレデリック パウリーナ マリアンネ |
家名 | オラニエ=ナッサウ家 |
父親 | オラニエ公ウィレム5世 |
母親 | フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン |
宗教 | キリスト教改革派教会 |
ウィレム1世(オランダ語: Willem I、1772年8月24日 - 1843年12月12日)は、初代オランダ国王(在位:1815年3月16日 - 1840年10月7日)およびルクセンブルク大公(フランス語名ギヨーム1世、Guillaume I)である。
かつて10ギルダー紙幣に肖像が使用されていた。
生涯
父はオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の最後の総督だったオラニエ公ウィレム5世で、母はプロイセン王女(アウグスト・ヴィルヘルム王子の娘でフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妹)ヴィルヘルミーネ。1791年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘で従妹に当たるヴィルヘルミーネと結婚した。
1795年、フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。
プロイセン軍に参加していたウィレムは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちのアウエルシュタットの戦いで戦ったのち、その2日後にエアフルトをフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏に関して、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義理の兄となっていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が介入したため、処罰を免れた[1]。
1813年にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」(プリンス)の称号を受けた。ナポレオン失脚後の1815年、ウィーン会議により、18世紀まで共和制を布いていたオランダとハプスブルク家の領土だった南ネーデルラントを併せて立憲君主国オランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、初代国王に即位した。また、ナッサウ家の古くからの所領であったラインラントのナッサウ、ディレンブルク、ディーツなどの所領がプロイセン領に併合されるのと引き換えに、ルクセンブルク大公を兼ねることとなった。
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北ネーデルラントは20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、1830年にフランス7月革命の余波でブリュッセルでも暴動が起こり、ベルギー独立革命へと発展した。結果、ベルギーは独立してザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに1840年、退位して息子のウィレム2世に王位を譲り、ベルリンへ移住した。1841年に、長年の愛人アンリエット・ドートルモン(ベルギー人貴族でカトリック教徒)と貴賤結婚し、彼女にナッサウ伯爵夫人の称号を与えた。1843年に死去した。
脚注
- ^ Hofschröer 『1815 THE WATERLOO CAMPAIGN: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』 P21
参考文献
- Hofschröer 『1815 THE WATERLOO CAMPAIGN: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』