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1942年[[学徒出陣]]のため東京帝国大学支那哲学科を繰り上げ卒業、戦後長く特別研究生、中国哲学研究室助手を務め、1962年[[中央大学]][[助教授]]、1964年東京大学[[文学部]]助教授、1971年[[教授]]、1981年定年退官、[[大東文化大学]]教授。[[明]]末・[[清]]初の思想を研究し中国近世への過渡期の特徴を把握した。
1942年[[学徒出陣]]のため東京帝国大学支那哲学科を繰り上げ卒業、戦後長く特別研究生、中国哲学研究室助手を務め、1962年[[中央大学]][[助教授]]、1964年東京大学[[文学部]]助教授、1971年[[教授]]、1981年定年退官、[[大東文化大学]]教授。[[明]]末・[[清]]初の思想を研究し中国近世への過渡期の特徴を把握した。

江戸時代荻生徂徠の弟子山井鼎(号 崑崙)の末裔、東京帝国大学教授(中国文学)盬谷温の甥に当たる。


== 著書 ==
== 著書 ==

2020年4月30日 (木) 07:45時点における版

山井 湧(やまのい ゆう、1920年7月22日 - 1990年4月16日)は、中国思想学者、東京大学名誉教授兵庫県出身。

1942年学徒出陣のため東京帝国大学支那哲学科を繰り上げ卒業、戦後長く特別研究生、中国哲学研究室助手を務め、1962年中央大学助教授、1964年東京大学文学部助教授、1971年教授、1981年定年退官、大東文化大学教授。末・初の思想を研究し中国近世への過渡期の特徴を把握した。

江戸時代荻生徂徠の弟子山井鼎(号 崑崙)の末裔、東京帝国大学教授(中国文学)盬谷温の甥に当たる。

著書

脚注