「サッカーアルジェリア民族解放戦線代表」の版間の差分
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[[1954年]][[10月10日]]に[[フランス]]からの[[独立]]を勝ち取るために、[[アルジェリア民族解放戦線]]が創設されると、[[1958年]][[4月1日]]にフランスでプレーする選手が中心となって、その代表チームが結成された。当時すでに、サッカーは[[フランス領アルジェリア]]国内でも盛んだったが、優秀な選手はフランス本土でプレーしていた。このチームの目的は、サッカーを通してアルジェリアの存在を世界にアピールし、独立の機運を高めることにあった。そのため、フランスサッカー連盟は代表に対して圧力をかけ、[[FIFA]]に加盟させなかった。そのかわりに、代表は8回にわたって世界遠征をすることを許され、[[アフリカ]](主に[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]、[[サッカーモロッコ代表|モロッコ]]等の北アフリカ諸国のナショナルチームとの試合)、[[アジア]]([[イラク]]、[[中華人民共和国|中国]]の地域選抜・イラク陸軍、[[サッカー北ベトナム代表]]との試合)、[[ヨーロッパ]]([[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]や[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]等の東欧諸国のナショナルチームとの試合)を巡った。これらの試合では、チュニジア代表やモロッコ代表に8-0で勝つなど、ナショナルチームに不敗(但し、中国遠征で[[北京]]選抜に2-4、[[天津]]選抜に1-5で敗れたことがある)という好成績を残した。 |
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[[1962年]][[7月5日]]にアルジェリアが独立すると、アルジェリア本土に[[アルジェリアサッカー連盟]](FAF)が設立された。このため、アルジェリア民族解放戦線代表の存在意義が無くなり、翌[[1963年]]に、既にアルジェリア本土にあった'''[[サッカーアルジェリア代表]]'''に吸収される |
[[1962年]][[7月5日]]にアルジェリアが独立すると、アルジェリア本土に[[アルジェリアサッカー連盟]](FAF)が設立された。このため、アルジェリア民族解放戦線代表の存在意義が無くなり、翌[[1963年]]に、既にアルジェリア本土にあった'''[[サッカーアルジェリア代表]]'''に吸収されるかたちで消滅した。最後の試合は、1962年5月のハンガリー戦([[ブダペスト]])で2-2の[[引き分け]]だった。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2018年4月12日 (木) 07:34時点における最新版
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国または地域 | アルジェリア民族解放戦線 | |||
協会 | フランスサッカー連盟[1] | |||
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初の国際試合 |
1958年4月1日対チュニジア 7-1 | |||
最大差勝利試合 |
1958年4月15日対チュニジア 8-0 1959年10月8日対モロッコ 8-0[2] | |||
最大差敗戦試合 |
未敗北[3] | |||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 0回 | |||
サッカーアルジェリア民族解放戦線代表(サッカーアルジェリアみんぞくかいほうせんせんだいひょう、英語: FLN football team、アラビア語: فريق جبهة التحرير الوطني لكرة القدم,[4] 、フランス語: Équipe du FLN de football)は、かつて存在したアルジェリアのナショナルチームである。代表チーム自体は宗主国だったフランスに置かれた。
1954年10月10日にフランスからの独立を勝ち取るために、アルジェリア民族解放戦線が創設されると、1958年4月1日にフランスでプレーする選手が中心となって、その代表チームが結成された。当時すでに、サッカーはフランス領アルジェリア国内でも盛んだったが、優秀な選手はフランス本土でプレーしていた。このチームの目的は、サッカーを通してアルジェリアの存在を世界にアピールし、独立の機運を高めることにあった。そのため、フランスサッカー連盟は代表に対して圧力をかけ、FIFAに加盟させなかった。そのかわりに、代表は8回にわたって世界遠征をすることを許され、アフリカ(主にチュニジア、モロッコ等の北アフリカ諸国のナショナルチームとの試合)、アジア(イラク、中国の地域選抜・イラク陸軍、サッカー北ベトナム代表との試合)、ヨーロッパ(ハンガリーやユーゴスラビア等の東欧諸国のナショナルチームとの試合)を巡った。これらの試合では、チュニジア代表やモロッコ代表に8-0で勝つなど、ナショナルチームに不敗(但し、中国遠征で北京選抜に2-4、天津選抜に1-5で敗れたことがある)という好成績を残した。
1962年7月5日にアルジェリアが独立すると、アルジェリア本土にアルジェリアサッカー連盟(FAF)が設立された。このため、アルジェリア民族解放戦線代表の存在意義が無くなり、翌1963年に、既にアルジェリア本土にあったサッカーアルジェリア代表に吸収されるかたちで消滅した。最後の試合は、1962年5月のハンガリー戦(ブダペスト)で2-2の引き分けだった。