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2013年3月28日 (木) 23:27時点における版
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝8年10月9日(1680年11月29日) |
死没 | 享保6年2月7日(1721年3月4日) |
改名 | 源之助(幼名)→矩栄(初名)→長矩→宣富 |
別名 | 釆女(通称) |
墓所 | 岡山県津山市西寺町の泰安寺 |
官位 | 従四位下、越後守、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 美作津山藩主 |
氏族 | 越前松平家 |
父母 | 父:松平直矩、養父:松平光長 |
兄弟 | 基知、宣富、知清 |
妻 |
正室:佐竹義処の娘 継室:園池実尚の娘(櫛笥隆賀の養女) |
子 |
浅五郎、娘(蜂須賀宗員正室)、 娘(松平信将継室)、 娘(織田信朝正室)、娘(園池房季室) |
松平 宣富(まつだいら のぶとみ)は、江戸時代中期の大名。美作津山藩の初代藩主。
生涯
延宝8年(1680年)10月9日、陸奥白河藩主松平直矩の三男として生まれる。元服して父の偏諱を受け、矩栄と名乗る。
元禄6年(1694年)、越後騒動で改易されたのち、合力米3万俵を与えられていた元越後高田藩主松平光長の養嗣子となり、光長の偏諱を受け松平釆女長矩と改めた。
元禄10年(1697年)に養父が隠居すると越後守を称することを許された。翌年には長矩に対し、美作のうちで10万石が与えられた。津山城を与えられ、美作の大部分を領した長矩は津山藩を立藩し、堂々たる国持大名(準国主)として幕府から遇された。津山藩松平家の始まりである。
越前越後以来の家臣はもとより、以前の津山の旧領主である森氏(森衆利)の遺臣など、人材を江戸や京洛にても求め、積極的に登用し、藩の運営を始めるが、同年、年貢を高く設定した[注 1]ために農民一揆(高倉騒動)が発生する。果断を持ってこれを乗り切ったが、この反省から、長矩は庄屋制度や大庄屋制度の改革による農村支配制の強化、財政改革を行なった。
立藩直後の元禄11年(1698年)9月、江戸で起こった勅額火事により、幕府より預かったばかりの藩邸を全消失した。のちに江戸城至近の鍛冶橋付近に藩邸用地7000坪[注 2]と金1万両を与えられ、江戸上屋敷を再建した。
将軍徳川家宣の賜諱を受け、宣富と再度改名した。
享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。跡を長男の浅五郎が継いだ。