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'''黒岩 涙香'''(くろいわ るいこう、[[1862年]][[11月20日]]([[文久]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[1920年]]([[大正]]9年)[[10月6日]])は、[[明治時代]]の知識人、[[思想家]]、[[作家]]、[[翻訳家]]、[[推理作家|探偵小説家]]、[[ジャーナリスト]]。兄は[[黒岩四方之進]]。本名は黒岩周六。ほか、香骨居士、涙香小史などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、黒岩大。あだ名はマムシの周六。[[戒名]]は黒岩院周六涙香忠天居士。
'''黒岩 涙香'''(くろいわ るいこう、[[1862年]][[11月20日]]([[文久]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[1920年]]([[大正]]9年)[[10月6日]])は、[[明治時代]]の知識人、[[思想家]]、[[作家]]、[[翻訳家]]、[[推理作家|探偵小説家]]、[[ジャーナリスト]]。兄は[[黒岩四方之進]]。本名は黒岩周六。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、黒岩大。あだ名はマムシの周六。[[戒名]]は黒岩院周六涙香忠天居士。


翻訳家、作家、記者として活動。『[[萬朝報]](よろずちょうほう)』を創刊した。
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* 「[[五目並べ]]」を「[[連珠]]」と命名発展させた。禁手のない初期ルールの五目並べの必勝法を1899年に発表した。1904年に東京連珠社を設立し、段位制を制定、1910年に社長。初代永世名人であり高山互楽を名乗った。連珠本も数冊出している。
* 「[[五目並べ]]」を「[[連珠]]」と命名発展させた。禁手のない初期ルールの五目並べの必勝法を1899年に発表した。1904年に東京連珠社を設立し、段位制を制定、1910年に社長。初代永世名人であり高山互楽を名乗った。連珠本も数冊出している。
* [[競技かるた]]のルールを全国で統一した。
* [[競技かるた]]のルールを全国で統一した。
*名前を分解すると「黒い」「悪い」「子」になるが、黒岩は本名、涙香は愛読していた「紅涙香」に由来する。
*名前を分解すると「黒い」「悪い」「子」になるが、黒岩は本名、涙香は愛読していた「紅涙香」に由来する。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2013年1月14日 (月) 03:14時点における版

黒岩 涙香
(くろいわ るいこう)
定本俚謡正調:写真
ペンネーム 古概
涙香
民鉄
黒岩大
誕生 黒岩周六
1862年11月20日
日本の旗 日本土佐国安芸郡
死没 (1920-10-06) 1920年10月6日(57歳没)
職業 ジャーナリスト
歴史家
評論家
小説家
評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾
ジャンル 小説
文学活動 時事評論
主な受賞歴 勲三等
ウィキポータル 文学
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黒岩 涙香(くろいわ るいこう、1862年11月20日文久2年9月29日) - 1920年大正9年)10月6日)は、明治時代の知識人、思想家作家翻訳家探偵小説家ジャーナリスト。兄は黒岩四方之進。本名は黒岩周六。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、黒岩大。あだ名はマムシの周六。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。

翻訳家、作家、記者として活動。『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した。

経歴

土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に土佐藩郷士の子として生まれる。藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校 (旧制))に学び英語力を身につける。翌年、上京して成立学舎慶應義塾に進学するも、いずれも卒業せず。大阪時代から新聞への投書を始め、自由民権運動に携わり1882年には官吏侮辱罪により有罪の判決を受けた。

『同盟改進新聞』や『日本たいむす』に新聞記者として入社後、1882年明治15年)に創刊された『絵入自由新聞』に入社。2年後に主筆となり、語学力を生かして記者として活躍していくも、後に翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』(後の『都新聞』)に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなり、次々に新作を発表した。逐語訳はせず、原書を読んで筋を理解したうえで一から文章を創作していた。1889年(明治22年)、『都新聞』に破格の待遇で主筆として迎えられたが、社長が経営に失敗。新たに社長に就任した楠木正隆と衝突して退社。

1892年(明治25年)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。タブロイド判の日刊新聞で、涙香の『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情(あゝ無情)』などの代表作を次々に掲載したり、『相馬家毒殺騒動』(相馬事件)や『淫祠蓮門教会』といったスキャンダラスな出来事を他紙よりも長期にわたり、ドラマチックに報道することで部数を伸ばしていく。一時は東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部となった。また有名人無名人の愛人関係を本人はもちろん愛人も実名住所職業入りで暴露した人気連載「弊風一斑蓄妾の実例」も涙香の執筆によるものであった。こうしたスキャンダル報道だけでは、やがて大衆に飽きられて売れなくなると、涙香は幸徳秋水内村鑑三堺利彦らといったインテリに参画を求めた。1901年には「理想団」を設立、人心の改善、社会の改良を目指し、青年の人気を得た。

1911年に朝報社より婦人雑誌『淑女かゞみ』創刊。婦人問題について執筆し、『小野子町論』『予が婦人観』などを刊行する。シーメンス事件では政府を攻撃したが、続く大隈内閣を擁護して不評をまねいた。1915年の御大典に際して、新聞事業の功労により勲三等に叙せられる。同年に長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業。

業績

翻案小説

涙香は 100以上もの外国小説を翻案している。青年時代に語学の勉強のために輸入された廉価本を読み漁った。そのうちで面白いと思ったものを彩霞園柳香に書かせた「二葉草」を今日新聞に掲載したが、面白くならなかったため、自ら『法廷の美人』を執筆した。

代表作には以下のような作品がある。

創作小説

  • 無惨(別題「三筋の髪、探偵小説」) - 1889年9月10日、小説館の『小説叢』誌第1巻に掲載された。日本初の探偵小説(創作)とされる。惨殺された身元不明の死体が握っていた三筋の髪の毛を手がかりに、2人の探偵はそれぞれ、外見的特徴、科学的特徴から犯人を推理していく。 (青空文庫に掲載)
  • 六人の死骸、探偵小説 - 1896年12月6日 

評論

  • 天人論 - 1902年
  • 人尊主義 - 1910年
  • 小野小町論 - 1913年

その他

  • 五目並べ」を「連珠」と命名発展させた。禁手のない初期ルールの五目並べの必勝法を1899年に発表した。1904年に東京連珠社を設立し、段位制を制定、1910年に社長。初代永世名人であり高山互楽を名乗った。連珠本も数冊出している。
  • 競技かるたのルールを全国で統一した。
  • 名前を分解すると「黒い」「悪い」「子」になるが、黒岩は本名に、涙香は愛読していた「紅涙香」に由来する。

脚注

  1. ^ 従来、この作品が原作とされていたが、小森健太朗が原書を取り寄せて読んでみたところ、妖精物語であり、『怪の物』の原作ではなかった。 小森健太朗『英文学の地下水脈』東京創元社、2009年。

参考文献

  • 伊藤秀雄『黒岩涙香研究』(『幻影城評論研究叢書』5)、幻影城、1978年10月。
  • 岡直樹『偉人涙香-黒岩涙香とゆかりの人びと』、土佐文化資料調査研究会、1970年10月。
  • 『日本探偵小説全集1 黒岩涙香・小酒井不木・甲賀三郎』東京創元社 1984年
  • 伊藤秀雄『黒岩涙香』 三一書房 1988年12月15日

外部リンク