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館長は岩崎行親<ref><small>1897年1月18日に鹿児島県尋常中学校校長との兼任発令(「官報」第4064号、明治30年1月19日)</small></ref>。当初の生徒数(元・高等中学造士館生)は50名前後であった<ref><small>『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)のp109には次のごとき考察がある。「本来ならば一中学校としてとうてい成り立ち得ない規模であるが、島津家や旧藩士勢力を背景としていることもあって、県当局もその育成のために格段の配慮をしているようである。高等中学時代の施設設備が残されていたことが有利な条件となっていたこともあろう。機会を得て高等学校として再興したいという意図も一部にはあった」</small></ref>。
館長は岩崎行親<ref><small>1897年1月18日に鹿児島県尋常中学校校長との兼任発令(「官報」第4064号、明治30年1月19日)</small></ref>。当初の生徒数(元・高等中学造士館生)は50名前後であった<ref><small>『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)のp109には次のごとき考察がある。「本来ならば一中学校としてとうてい成り立ち得ない規模であるが、島津家や旧藩士勢力を背景としていることもあって、県当局もその育成のために格段の配慮をしているようである。高等中学時代の施設設備が残されていたことが有利な条件となっていたこともあろう。機会を得て高等学校として再興したいという意図も一部にはあった」</small></ref>。


明治31(1898年)、[[鹿児島県立鶴丸高等学校|鹿児島県第一尋常中学校]](鹿児島県尋常中学校を改称)の2年生から4年生まで各学年40名を尋常中学造士館に転籍させ、生徒数の確保を図った。尋常中学造士館は現在の「[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]」、尋常中学校は現在の「かごしま県民交流センター」敷地にあり、「館馬場(やかたんばば)」(国道10号線)を隔てて並立していた。このような立地環境から、尋常中学造士館は「上の中学」、尋常中学校は「下の中学」と呼ばれ、喧嘩騒ぎも絶えなかった<ref><small>『鹿児島県教育史 下巻』p73、『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p26</small></ref>。
明治30(1897年)、[[鹿児島県立鶴丸高等学校|鹿児島県第一尋常中学校]](鹿児島県尋常中学校を改称)の2年生から4年生まで各学年40名を尋常中学造士館に転籍させ、生徒数の確保を図った。尋常中学造士館は現在の「[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]」、尋常中学校は現在の「かごしま県民交流センター」敷地にあり、「館馬場(やかたんばば)」(国道10号線)を隔てて並立していた。このような立地環境から、尋常中学造士館は「上の中学」、尋常中学校は「下の中学」と呼ばれ、喧嘩騒ぎも絶えなかった<ref><small>『鹿児島県教育史 下巻』p73、『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p26</small></ref>。


明治32年(1899年)4月、「尋常」が外れ、鹿児島県中学造士館と改称。やがて政府に高等学校(旧制)増設の方針が明らかとなると、島津忠重が16万余円並びに中学造士館の建物・設備を政府へ寄付することで鹿児島県への高等学校設置を願い出て、さらに県議会も高等学校開設を建議した<ref><small>『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p26</small></ref>。その結果、明治34年(1901年)4月1日には[[第七高等学校造士館]](七高)設置の告示がなされ、同年4月30日をもって鹿児島県中学造士館廃止となった。翌日の5月1日には[[鹿児島県立甲南高等学校|鹿児島県第一中学校分校]]を七高内に<ref><small>山下町、現在の中央公園、セラ602駐車場敷地</small></ref>仮設、旧・中学造士館生の3年生以下を収容した。分校におけるのは第3学年までと定められていた<ref><small>『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)p120</small></ref>ため、4年生以上は[[鹿児島県立鶴丸高等学校|鹿児島県第一中学校]]に収容された。
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2012年10月18日 (木) 10:42時点における版


中学造士館(ちゅうがくぞうしかん)は、明治期、鹿児島県に存在した中等教育機関(旧制中学校)。

年表

県立鹿児島中学・公立鹿児島学校

県立鹿児島中学

中学校教則大綱により、明治11年(1878年)7月設立。

監事は黒木才蔵。場所は、御作事方跡地で、現在の鹿児島市役所前、みなと大通り公園一帯に当たる。のち、敷地の南半分は名山学校に割譲された。授業料は月5銭(当時)で、兄弟が在学の場合は一人が半額だった。課程は正則及び変則の2科編制で当初は変則中学科300名を募集した。[1]。また設立当初は、定められた中学区内から生徒を募集していたが、明治12年6月に学区制限を廃した[2]

明治14年(1881年)には本科4年及び予科1年に改編され、変則中学科を予科に吸収し、本科へ進級できるようになったが、さらに明治16年、初等科3年及び高等科2年に改編された[3]

公立鹿児島学校

在京の鹿児島県出身者有志(のちの「郷友会」で、会長は仁礼景範。)の寄金により明治14年(1881年)9月設立[4][5]。 学校長は椎原国幹西郷隆盛の叔父)。島津家の賞典禄5万4200円を基金として鹿児島市磯地区の「異人館(鹿児島紡績所技師館)」「集成館」跡で開校。

課程は本科3年及び予科の2科編制。英語を主として漢学や数学等を教える下等中学(当時の学制上の呼称)相当であったとの考察がある[6][7]

翌明治15年(1882年)には鹿児島城址に移転。

鹿児島県立中学造士館

明治17年(1884年)12月26日、文部省中学校教則大綱と中学校通則により開校[8]

明治17年(1884年)に、島津忠義が県令に「造士館再建の願」を提出し、同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長・島津珍彦、副委員長・島津忠欽)しており、公立鹿児島学校へ県立鹿児島中学を統合する形で開校した。[9][10][11]

館長には島津珍彦[12]が就き、課程は高等中学科及び初等中学科の2科編制、生徒定員は500名で、開校時、中学造士館の本館として鹿児島市磯地区の「異人館」が鹿児島城址に移築され、維持費は、前出・島津忠義の寄付金及び公立鹿児島学校の校費を転用し、県費の支出は皆無であった。[13]

明治二十年造士館騒動

明治20年(1887年)6月22日、寮の朝食で寮生2名が食卓で粗相をした(食事をこぼした)。それを見た寮監が「田舎五郎ノ様子ヲ以テ斯ル軽率ナル事ヲナシ若シ館外ナリセバ踏ミ倒シ呉レン」と罵倒。これに対して鹿児島市以外出身者、すなわち地方出身の寮生が憤慨し寮監を追及するが、暴動は起こさず、寮生代表8名が学校側と話し合った。学校側は結論を出すまでの間、寮生に外出禁止を通達したが、数十名が外出した。その2日後には全員が放館処分を受けた。寮生154名の中には、宮崎県小林地区出身の赤木通弘(明治6年(1873年)生、当時14歳)がおり、赤木の手記が昭和61年(1986年)2月に赤木の子孫家で発見され、遠戚により製本・出版がなされて当事件が明らかになった。また、原口泉氏(当時鹿児島大学法文学部助教授)がナビゲーターを務める「NHKかごしま歴史紀行」の同年9月放送分でも取り上げられている。[14]

造士館と野球

鹿児島県内の野球については、一般には1894年の旧制鹿児島県尋常中学校における野球部創部が始まりであると解されている[15]。『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)には、造士館での野球について記述がある。[16]

明治19年(1886年)4月には、中学校を尋常中学校と高等中学校に分離する「中学校令」が公布され、各府県には一校ずつ尋常中学校が次々に設置された[17]。明治20年1月、鹿児島県出身の初代文部大臣・森有礼が帰鹿、中学造士館を視察したが、この際に中学造士館を高等中学校へ昇格させる運動が起こり、島津忠義らによる中学造士館の基金など一切は、高等中学校へ転用された[18]

(官立)鹿児島高等中学造士館

明治20年(1887年)12月20日、鹿児島県立中学造士館の(官立)鹿児島高等中学造士館への改編が告示、翌明治21年(1888年)4月、旧・県立中学造士館生徒を収容し開校。生徒の転籍先は、旧・県立中学造士館高等中学科卒業→本科、旧・県立中学造士館初等中学科在籍生→予科補充科。

館長は島津珍彦。課程は本科2年、予科3年、予科補充科2年の3科7年制。島津忠義らの寄付資金11万余円を元資金として、これが生み出す利息などによって運営された[19]。中学校卒業生が不足し、定員割れが慢性化していたほか、「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった[20][21]

高等中学造士館は、明治29年(1896年)まで存続したが、この学校の予科・補充科が、明治27年(1894年)に県費のみによる尋常中学校設立までの間、鹿児島県において尋常中学校の役割を果たした[22][23]

明治29年(1896年)9月3日、鹿児島高等中学造士館廃止が告示された。その理由として『鹿児島県史 第四巻』(鹿児島県編、1943年)及び『鹿児島県教育史 下巻』(前出、1961年)は「都合により」、『鹿児島市史 第三巻』(鹿児島市史編纂委員会編、1971年)は「島津忠重はこれを深く遺憾とし」と述べているが、「鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察」(芳即正)[24]には「当然運営経費の増加が見込まれ、島津家ではその負担に堪え得ないとして、明治29年度で高等中学造士館は廃止することになった」とある。廃止後、本科在籍生は第五高等学校などに転校したが、予科在籍生の転校先はなく[25]、県庁管理による造士館復活となった。

鹿児島県尋常中学造士館

明治29年(1896年)12月設立。旧・鹿児島高等中学造士館の予科生徒を収容して明治30年(1897年)1月25日開校。

館長は岩崎行親[26]。当初の生徒数(元・高等中学造士館生)は50名前後であった[27]

明治30年(1897年)、鹿児島県第一尋常中学校(鹿児島県尋常中学校を改称)の2年生から4年生まで各学年40名を尋常中学造士館に転籍させ、生徒数の確保を図った。尋常中学造士館は現在の「鹿児島県歴史資料センター黎明館」、尋常中学校は現在の「かごしま県民交流センター」敷地にあり、「館馬場(やかたんばば)」(国道10号線)を隔てて並立していた。このような立地環境から、尋常中学造士館は「上の中学」、尋常中学校は「下の中学」と呼ばれ、喧嘩騒ぎも絶えなかった[28]

明治32年(1899年)4月、「尋常」が外れ、鹿児島県中学造士館と改称。やがて政府に高等学校(旧制)増設の方針が明らかとなると、島津忠重が16万余円並びに中学造士館の建物・設備を政府へ寄付することで鹿児島県への高等学校設置を願い出て、さらに県議会も高等学校開設を建議した[29]。その結果、明治34年(1901年)4月1日には第七高等学校造士館(七高)設置の告示がなされ、同年4月30日をもって鹿児島県中学造士館廃止となった。翌日の5月1日には鹿児島県第一中学校分校を七高内に[30]仮設、旧・中学造士館生の3年生以下を収容した。分校におけるのは第3学年までと定められていた[31]ため、4年生以上は鹿児島県第一中学校に収容された。

鹿児島城址裏、城山自然遊歩道の照国神社側入口より数百メートル左側地点には、「忠芬義芳」碑がある。これは旧・中学造士館と鹿児島中学校(第一中学校を改称したもの)両校の卒業生で日露戦争で戦死した者たちを慰霊するため、明治44年(1911年)5月27日に建てられた。碑文は当時第七高等学校造士館長(元・尋常中学造士館長兼尋常中学校長)であった岩崎行親によるもので、趣旨は以下のようである。[32]

「私が県立中学校長と県立中学造士館長を兼務していた際、日露戦争に両校の卒業生約百名が参戦した。海陸共に善戦したが、不幸にも20名の戦死者があった。さらに旧・鹿児島高等中学造士館関係の8名を合わせて28名が尊い命を散らした。よって、この碑を城山公園の閑静な眺望の場所に建て、忠芬義芳と題して碑の背側に戦死者の氏名を刻み、善行をたたえ、後進の発奮を促したい」

碑がある敷地の脇には、甲南高校3期卒業生で組織される「三甲会」の有志により、卒業五十周年記念事業の一つとして、国や鹿児島市の許可を得て説明板が設置されている[33]

後裔校について

複数の文献で後裔校について言及されている。

  • 山田尚二[34]
    • 「二中の歴史」(『甲南紀要第12号』)(1987年)[35][36][37]
    • 『鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に』(1976年、本書は上記「二中の歴史」の底本)[38]
  • 芳即正[39]
    • 「甲南のルーツは中学造士館にあり」(『蔦のある窓 創立90周年記念特集号』鹿児島県立甲南高等学校同窓会編、1996年、尚古集成館館長の肩書での寄稿[40]
    • 「鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察」(『鹿児島純心女子短期大学研究紀要第13号』1983年)[41]
  • 小松伸朗
    • 『鹿児島史学 第41号』[42]
  • 樋渡清廉(元教師)[43]
    • 「鹿児島県立第一鹿児島中学校同窓会記念誌」(1950年)[44][45]
  • 一中卒業生
    • 「鹿児島県立第一鹿児島中学校同窓会記念誌」(1950年)[46]
  • 第七高等学校造士館
    • 「第七高等学校造士館一覧」[47]
  •  鶴丸高等学校百年史編修委員会
  • 八幡和郎
    • 『47都道府県の名門高校 藩校・一中・受験校系譜と人脈』(CDIと共著、平凡社新書、2008年)[50]

主な出身者

【凡例:中造⇒鹿児島県立中学造士館、高造⇒鹿児島高等中学造士館、県造⇒鹿児島県(尋常)中学造士館】

主な教職員

  1. ^ 『鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に』(山田尚二、1979年)p2、『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)pp17-18
  2. ^ 明治13年(1880年)県議会史予算案経過報告
  3. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)p56
  4. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)pp56-57
  5. ^ 本校が「公立」と称した理由として、『鹿児島県教育史 下巻』はp70にて次のとおり述べている。「資金を募集したとすれば、設立のためのものを特に募り、その後の経費は島津奨学資金の前身である寄付金でまかなったというのであろう。しかも、その寄付金が県庁に保管されていたことから、公立鹿児島学校といわれるのであろう」
  6. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)p56
  7. ^ 8月18日に異人館で行われた入学試験科目は、洋書素読(ウヰルソン氏リードル第二、万国史)、漢書講義(日本外史、十八史略)、作文(仮名交じり文)、算術(比例まで)であった(『鹿児島純心女子短期大学研究紀要第13号』(1983年)内「鹿児島学校と三州義塾:史料と政治的背景についての考察」(芳即正)p70)というがこれについて、『鹿児島県教育史 下巻』のp69には次のように述べられている。「『小学ヲ卒業シタルモノト学齢外ノ為メニ創設スルトコロ』の学校としては程度が高い。しかし、洋書を読めないものは漢書その他で試験するとあるので、それだと普通であろうか」
  8. ^ 『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p22
  9. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)
  10. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)では、鹿児島における政治闘争の中で、民党系の三州社(三州塾を運営)及び自由党系の改進党に劣勢であった吏党系の郷友会(藩閥とは強力な関係にあった)が、公立鹿児島学校を拡大強化することで、三州社や改進党の弱体化を狙ったと述べられている。また、『鹿児島純心女子短期大学研究紀要第13号』(1983年)内「鹿児島学校と三州義塾:史料と政治的背景についての考察」(芳即正)pp106 – 110では次のごとく考察がなされている。「(前略)鹿児島中学校と鹿児島学校を合体して、これに島津家の補助を集中し、財政基盤を強固にしようという案である。当然これにより三州義塾を圧倒しようというわけである。この点はあくまで筆者の推定であるが、創立間もない鹿児島学校が鹿児島中学校と合併する経緯を検討する時、そう考えざるを得ない。当時補助を打ち切られていた鹿児島中学校は、県庁でも経営に困っていたと思われる。島津家が補助を復活するとすれば、従来の経緯から当然鹿児島中学校を優先すべきであろう。種々検討された結果とは思うが、当時の郷友会、三州社の対抗関係を考える時、鹿児島学校、鹿児島中学校合併案が出たと思われる。もちろんそれが三州義塾への対抗策と記された史料もなく、今日迄そういう推定もなされたことはない。(中略)鹿児島学校は創立後やっと3年を過ぎたばかりである。本来ならばこれを郷友会経営として、てこ入れするのが筋であろう。それを廃止するというのは何としても不自然である。したがって県立中学と鹿児島学校を一本にした造士館再建計画は、これを機に初めて浮上したものと断定して差し支えあるまい。」
  11. ^ 創設に際しては徴兵制との兼ね合い、要するに教師や生徒に徴兵令における特典が付与されるかどうかということも問題であった。つまり、公立の中学校、師範学校、大学の教師・学生・卒業生には徴兵猶予およびいわゆる一年志願兵の制度などの特典が与えられていたが、新設の学校が島津家の学校として経営されるならば公立学校としての資格は認められず、徴兵上の特典は認められないことが懸念されていた。(『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)pp39-40)
  12. ^ 『島津珍彦男建像記念誌』(近藤慶四郎・樋渡清廉共編、1923年)によれば、当時照国神社宮司であった珍彦は、学校新設にあたって、「願クハ御神意ニ被為基御当社ヲ学神ト被為思召皇漢洋兼修純粋精カク(漢字変換困難)事実普通ナル附属ノ学校ヲ御建設相成御支族ハ勿論御趣意遵奉県内子弟ヲ御養育被下候ハヾ幾分カ御神徳輝クノミナラズ敬神愛国ノ御素志モ愈相立可申且方今ノ世態ニテハ皇国ノ淳風逐日頽自然御神慮モ絶滅可仕甚ダ慨嘆ニ不堪不肖ヲ顧ミス御参考ノ為此段具上仕候間宜敷御勘考被下度奉願候誠謹言」との「学校御建設決議ニ付献言」を述べている。『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)p38では、「上記の『献言』から見るならば、島津珍彦によって提言された新設学校は島津家の私立で、照国神社附属の学校として考えられていたようである。学科も普通科に当たる中学・小学のほか皇典学・漢学という伝統的な学問を行なう専門学科、陸海軍を志望する者のための学科、その他に剣術・農学の専修科も考えられている。」とされる。
  13. ^ 『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)内「明治時代における鹿児島県の旧制中学校」(山田尚二)p58
  14. ^ 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)pp47-48および『甲南 第35号 創立八十周年記念特集号』ない「二中反骨魂のルーツ - 『明治二〇年造士館騒動』について - 」(原口泉)pp248-249 ※この著の中で、騒動の背景について原口氏は「藩政時代以来の鹿児島城下士の地方郷士に対する差別意識がある」とした上で、「1.寮生がご飯をこぼしたのは粗相だったのであろうか。故意に仕掛けたのなら、寮監もその不敵さを咎めたのであろう。2.通説によれば、この頃地方の生徒は学費が続かずに退学者が多かったとしているが、少なくともこの騒動をおこした生徒は、学校を締め出されると、人力車を雇い、旅籠に泊まり、最後は洲崎の酔月亭で親睦会を開くほどの金持ちであった。3.退学後、彼らは社会の落伍者となったか。当時は学校制度の変わる時期であったし、復学した者が多い。しかし、東京・京都さらに洋行した者もいた。赤木通弘は、若死したが、東大卒業後、五高教授・大阪天王寺中学校長になった傑物。ほかにも一中の名物教師樋渡清廉など教育界に進んだ者が多い。4.最後に、一五四名もの大量処分事件が埋もれたままであったのも鹿児島らしいことである。彼ら自身が語らなかったこともあろう。」と述べている。
  15. ^ 「ベースボール」を「野球」と訳した中馬庚も、1897年に尋常中学校へ赴任しているが、野球部創設との関連は確認されていない。
  16. ^ 当該部分について著者の山下は、『わたしのスコアブック 球児たちとその軌跡』(城井睦夫、1996年、三笠出版)を参考にしている。「20年10月に体操担当として豊永貢という助教諭が東京より来任、生徒達に野球を教えたことが当時の生徒の回想記のなかにある。野球という訳語はまだない時代であったが、おそらくこれが本県における野球の嚆矢であろう。技術的にどの程度のことが行われていたかは不明であるが、20年代半ば頃高等中学造士館ではいくらか行われていたことが、中馬庚関係の資料によってうかがえる。」
  17. ^ 鹿児島県においては明治27年(1894年)に県費のみによる尋常中学校が設立される。
  18. ^ 「二中の歴史(甲南紀要第12号抜刷)」(山田尚二、1987年)p8
  19. ^ 予科及び予科補充科が尋常中学校に当たる教育機関
  20. ^ 『鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に』(山田尚二、1979年)pp4-6、『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p24、『百年誌龍門』(鹿児島県立加治木高等学校、1997年)p59、『樟風遙か 甲南高校創立百周年 同窓会記念誌』(甲南高校創立百周年記念事業同窓会実行委員会、2006年)p19
  21. ^ 一方、前出「中学造士館の研究」のpp83-84には次の考察がある。「(造士館の学費等について授業料=本科10円・予科6円・補充科4円、その他を含めた年額=本科56.70円・予科51.90円・補充科47.30円と明示した上で)本科当時の諸物価と比較してみると、24・5年の物価に次のような例をあげることができる。米(玄米1石)6円50銭~5円80銭 鹿児島新聞代金月額30銭 私立鹿児島女学校本科月謝30銭 (中略)授業料 高等中学校 本科20円 予科・補充科15円 帝国大学25円 慶応義塾30円 東京専門学校19円 上記の学費金額はかなりきりつめた金額であると考えられるし、また、貨幣に対する感覚が当時と現在とではかなり違っているであろうが、他の物価等と比較してみて、学費の負担が大きかったとはかならずしも言えないのではなかろうか。規定どおりの授業料にしても他の高等中学校に比して格段にやすい。それに、実際には半額徴収であったはずであるから、生徒達は負担よりも島津家の恩恵を感じていたかも知れない。生徒の転学・退学の理由として学費によるものがあったことは否定し得ないが、本来造士館入学を志望した家庭でもあり、実際には事例としては少なかったのではないかと推測しておきたい。」
  22. ^ 『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p24
  23. ^ 「中学校令によって、当時あった中学造士館が高等中学造士館に昇格したことは、別項記述のとおりである。したがって、その後数年間は、高等中学造士館の予科が尋常中学の代わりをしていたわけであろうが、独立した尋常中学はないままで過ぎ去った。」『鹿児島県教育史 下巻』p71)
  24. ^ 『鹿児島純心女子短期大学研究紀要第13号』(1983年)内p110
  25. ^ 廃止の2年前である明治27年(1894年)には、鹿児島県尋常中学校が設立されていたが、同校への吸収策は採られなかった
  26. ^ 1897年1月18日に鹿児島県尋常中学校校長との兼任発令(「官報」第4064号、明治30年1月19日)
  27. ^ 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)のp109には次のごとき考察がある。「本来ならば一中学校としてとうてい成り立ち得ない規模であるが、島津家や旧藩士勢力を背景としていることもあって、県当局もその育成のために格段の配慮をしているようである。高等中学時代の施設設備が残されていたことが有利な条件となっていたこともあろう。機会を得て高等学校として再興したいという意図も一部にはあった」
  28. ^ 『鹿児島県教育史 下巻』p73、『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p26
  29. ^ 『創立百年』(鶴丸高等学校百年史編修委員会編、1994年)p26
  30. ^ 山下町、現在の中央公園、セラ602駐車場敷地
  31. ^ 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)p120
  32. ^ 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(山下玄洋、1997)p124
  33. ^ 『樟風遙か 甲南高校創立百周年 同窓会記念誌』(甲南高校創立百周年記念事業同窓会実行委員会編、2006年)pp122-123
  34. ^ 1931年鹿児島市生まれ、旧制加治木中学校を経て鹿児島大学教育学部卒。【「薩摩の七傑」芳即正監修、2000年、高城書房の著者プロフィールより】)
  35. ^ p3「甲南高校の前身が二中と二高女であることは大方の者が知っている。二中の前身が一中(当時の「鹿児島県第一中学校」の略称で、のちの「第一鹿児島中学校」の略称ではない – 引用者註)分校であることは、少数ながら知っている者がいるだろう。しかし、一中分校の前身はということになると、もう殆ど知る者はいない。一中分校は、その名からして一中から分かれて出来たのだろうという一般常識がまかり通っているが、その前身は中学造士館であった。中学造士館の前身は、鹿児島中学や鹿児島学校である。その前身はということになると、西南戦争や明治維新があって、断絶や廃校があるが、その流れは、遠く藩政時代の藩校造士館に連なる。」
  36. ^ p10(図書の保管転換について)「鹿児島県第一中学校分校は、わずか4か月で鹿児島県立鹿児島中学校分校に名称を変更した。甲南高校図書館第二書庫には、この鹿児島中学校分校印のある漢籍が百冊ほどある。一中分校や造士館時代のものは発見できず、がっかりしていたら、県立図書館に2冊ある情報を宮下満郎氏から得た。造士館蔵書印のあるこの本は、中学造士館から鹿児嶋中学分校、鹿児島県立図書館へと保管転換されていた。」なお、図書の移管については、前出「中学造士館の研究」p113に次の記述がある。「(鶴丸高校の)図書館には『造士館蔵書印』の押印のある図書が数冊所蔵されている。そのなかにはヽページに上記蔵書印のほかに「鹿児島中学印」と「鹿児島県立高等女学校之印」が押されているものがある。消印からみて、県立鹿児島中学の蔵書が明治17年に中学造士館に移され、さらに34年、中学造士館廃校の年に県立高等女学校(旧一高女)が開校されたので、その新設校に移管されたものと推定される。」
  37. ^ p11(造士館時代と同一人物の勤務について)「二中の独立当初、教頭の中馬庚が校長事務扱であった。中馬は、一高・東大を卒えて中学造士館に赴任し、一中分校・鹿児島中学校分校の変遷を通して勤め抜いた先生だった。中馬は、『野球』という語の翻訳者で、また二中の初代野球部長でもあった。二中は最初の年(明治39年)、七高主催の県下中学校野球大会で、一中を破り優勝している。」
  38. ^ p12「二中が独立してからしばらくの間は、その前身が造士館である意識を持っていた。二中の初代教頭中馬庚は、中学造士館時代から一中分校・鹿児島中学分校の時代を通して、勤め抜いてきた人だった。中馬教頭は、よく中学造士館時代の話を生徒たちにしていた。二中二回卒の龍野定一氏は、二中の池田校長が一中に転任しそうになった時、中馬教頭の話を引用して、二中の伝統の古さを演説した。時代は変って、七高造士館もなくなった。中学造士館の後身二中も甲南高校になった。中学造士館は、その後裔者たちの自覚によってのみ、顕彰もされるのであろう。」
  39. ^ 1915年鹿児島県生まれ、旧制鹿児島中学校(私立・津曲学園)を経て東京帝国大学文学部卒。鹿女子高校長、玉龍高校長などを歴任。【「薩摩の七傑」芳即正監修、2000年、高城書房の著者プロフィールより】
  40. ^ p23「(前略)城跡にあった鹿児島県中学造士館は廃止されることになり、その生徒収容のために三十四年五月鹿児島県第一中学校分校が設立された。これはその後九月鹿児島中学校分校と改称し、五年後三十九年に独立して二中となる。しかしこの分校はもともと七高にお株をとられた中学造士館の生徒収容のためにできたもので、これまでの経過をたどると、そのルーツが明治十七年設立の中学造士館にあることは明らかであろう。」
  41. ^ pp110-111「その後中学造士館は、明治20年高等中学造士館に昇格、(中略)明治29年度で、高等中学造士館は廃止することになった。その代りその後に同じく島津家寄付金等で県立尋常中学造士館が設立され、30年1月開校(「鹿児島県史」第4巻673頁。しかし島津奨学資金創立三十年記念誌」6頁によると4月開校という)、その後これを昇格させて34年第七高等学校造士館ができた。旧尋常中学造士館の3年生以下はその年5月設立された鹿児島県第一中学校分校に収容され、これは39年独立して県立二中となる。」
  42. ^ p13下段-p14上段「この時の校長事務取扱である学務課長の式辞でこの学校の歴史を述べているが、それによると『回顧すれば此の校や明治廿九年十二月二十五日新設せられ県立中学造士館と称す三十四年四月三十日廃止し同五月一日鹿児島県立第一中学校分校として開校し三十四年九月二日鹿児島県立鹿児島中学校分校と改称し三十五年五月二十九日この校舎新たになるを告く』と説き起こしている。このように県立中学造士館から説き起こしているが、これにはまた前身があったのであり、そうするとこれは鶴丸高等学校の前身尋常中学校よりも早い時期の成立となってしまう。そうすると現甲南高等学校の開校の時期を何時とみるかはいささか複雑なことになり、場合によっては鶴丸高等学校よりも早い時期の開校となるのではなかろうかということも出てくる。」
  43. ^ 1870=明治3年生まれ。中学造士館卒業後、一中に国語教師として36年間勤務した。
  44. ^ p5「要するに館は沿革多く、廉等の初頃は単に中学造士館で後高等中学となり、いったん廃せられて尋常中学と復活し、我校と両立の形で岩崎先生兼勤で安藤格学士実務を執り、生徒は我校のを程よく移すといふ変則の制であつた。今の二中の前身ともいふべしだ。」
  45. ^ p99
  46. ^ p56「明治卅年春、私は今の根占町神山小学校から、無試験の推薦生として中学に入学した。此年は県の中学教育上画期的な年であった。旧一中の創立は明治二十七年で、此の年一二年生を募集したので、三十年には五年から一年まで、各学年が満たされた。その上この年は二百名の一学年募集に加へて、県下の各小学から一名づゝの推薦生を採つて一学級を編成されたので、五学級二百五十名の一年生が出来た。推薦生は甲組で原級に止まつた数氏が加へられて、相当張切つたものだつた。どこの出身がよく出来るかと、相当注意を惹いたからである。旧一中はその通りであつたが、この年は新に、前に廃止せられた高等中学造士館が、中学校として復活し、これが後の二中の前身となり、また川内、加治木が分校として発足したので、全くこの年は鹿児島県中学教育の躍進期であつたと思ふ。」
  47. ^ 近代デジタルライブラリー第二章沿革略【3ページ目】(前略)第七高等学校造士館ハ遠ク其淵源ヲ安永二年島津氏ノ創設シタル藩学造士館ニ発ス爾来藩政時代ニ於テ幾多ノ変遷ヲ経明治四年政府藩ヲ廃シ県ヲ置カルヽニ際シ遂ニ廃絶セリ其後明治十七年ニ至リ舊鹿児島藩主公爵島津忠義祖先ノ遺志ヲ紹キ巨額ノ金員ヲ寄附シテ造士館再興ノ事ヲ県庁ニ委托セリ是ニ於テ同年十二月鹿児島中学ト鹿児島学校トヲ廃シ其資産ヲ併セ地ヲ元鹿児島学校ノ舊址ニトシ工ヲ鳩メテ教場ヲ増築シ中学校教則大綱ニ基キ新ニ学校ヲ設置シ之ヲ名ケテ鹿児島県立中学造士館ト称ス同十八年二月生徒ヲ募集シ三月授業ヲ開始ス其後同二十年十二月公爵島津忠義ノ請願ニ依リ諸学校通則第一條ニ従ヒ更ニ高等中学校ノ制ニ改メ文部省ノ管理トナシ鹿児島高等中学造士館ト称セラル同月島津珍彦ヲ館長ニ任セラル同二十一年一月学科課程ヲ定メ其学科ヲ本科予科及補充科ノ三科トナシ元県立中学造士館ノ生徒ヲ収容シテ授業ヲ開始ス同二十四年八月館長男爵島津珍彦非【4ページ目】職ヲ命セラレ文部省視学官川上彦次館長ニ任セラル同月生徒二名初テ本科ヲ卒業ス同二十六年三月館長川上彦次非職ヲ命セラレ非職館長男爵島津珍彦復職ヲ命セラル同二十九年九月都合ニ依リ文部省ノ管理ヲ解キ生徒ハ他ノ高等学校ニ転学セシメラル是ニ於テ本館ハ廃校スルノ止ムヲ得サルニ至レリ明治二十年高等中学校ノ制ニ改メラレシヨリ茲ニ八年有餘此間卒業生ヲ出セシコト六回ニシテ其員数四十八人ナリ同年十二月再ヒ県庁ノ管理ニ属シ鹿児島県尋常中学造士館と称し翌三十年一月元高等中学造士館予科生徒ヲ収容シテ授業ヲ開始セリ同三十四年ニ至リ第七高等学校造士館ノ設置セラルヽニ当リ本館ヲ廃シ生徒ハ総テ同時ニ設ケラレタル鹿児島県第一中学校分校ニ収容セリ
  48. ^ p27「現在の一中同窓会名簿には中学造士館卒業生や分校卒業生も載せている。先に述べたように尋常中学校から尋常中学造士館に転入させたこともあるのだろうが、しかし、その歴史的流れからみるとこの卒業生達は二中すなわち甲南高等学校の先輩でもあるわけである。」
  49. ^ p97「四月、前年末の県議会などでも話題になっていた分校の独立が実現した。そこで本校は鹿児島県立第一鹿児島中学校と称することになり、分校は鹿児島県立第二鹿児島中学校と称したのである。その開校式は五月十三日に行われたが、その式辞で校長事務取扱沢田事務官の挨拶に『この学校は明治二十九年十二月二十五日新設され県立中学造士館と称したものが明治三十四年四月三十日に廃され、その五月一日に県立第一中学校分校として開校し、それが同年九月二日鹿児島県立鹿児島中学校分校と改称し三十五年五月二十九日にこの地に校舎新たになり』とその歴史を説いている。明らかに中学造士館から説きおこしている。そうなると現県立甲南高等学校の歴史は、この分校独立からということにはならないのではあるまいか。」
  50. ^ p258-260「薩摩藩の藩校である造士館(1773年創立)は、むしろ、旧制七高に引き継がれた。だが、明治27年に設立された鶴丸高校(旧一中)や甲南高校(旧二中)がその精神のもとにあることは間違いない。西南戦争による途絶はあるが、明治11年には県立鹿児島中学が開かれた。そして、明治17年には島津家の援助で設立された鹿児島県立中学造士館となり、鶴丸城内に移ったが、明治21年にこれは高等中学校に昇格した。だが、明治27年に廃校となり、本科生はほかの高校へ転校し、予科は県立尋常中学造士館と模様替えされた。一方で、明治27年には別の県立尋常中学が設立されていたが、31年にその一部が造士館に転校させられた。その後、県下の各地に中学が設立され、鹿児島の尋常中学は一中と呼ばれるようになった。34年になり再び第七高等学校造士館が設立されたのにともない、低学年の生徒は一中の分校を設けて収容され、これがのちに二中になった。この一中が鶴丸高校、二中が甲南高校の前身である。この経緯から、鶴丸と甲南のどちらが造士館の伝統を引き継ぐのかといった議論もあるが、どちらにも、かなり濃厚に関与するものの、直接的なものとはいいにくそうだ。」