「イタリア王国 (1805年-1814年)」の版間の差分
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2012年9月7日 (金) 22:11時点における版
イタリア王国(Regno d'Italia, しばしばRegno Italico)は、イタリア統一以前の1805年から1814年に、現在のイタリアに存在した国家の1つ。ナポレオン1世により設立された。イタリア中東部と北部を含み、首都はミラノであった。
歴史
誕生
1805年3月18日、プレスブルクの平和とともにオーストリア帝国はゴリツィアとヴェネト県を放棄した。ヴェネトはイタリア共和国に統合され、「イタリア王国」が創られることとなる。
ナポレオン・ボナパルトは1804年にピウス7世により戴冠され、元老院によりフランス皇帝と宣言された。イタリア共和国もイタリア王国に変えられ、ナポレオン自身がイタリア王となり、ミラノのドゥオーモの内部で1805年5月26日に戴冠した。そして、ナポレオンを盲目的に信頼し、自身の政治的目的の追求を恐れない養子のウジェーヌ・ド・ボアルネがイタリア副王に任命された。
1809年にはゴリツィアとトリエステ、イストリア、ダルマツィア、カッターロ湾は王国からはずされ、リュブリャナを県都とするイリュリア県としてフランスの支配下となった。
崩壊
1814年にナポレオンの時代が終わると、イタリア王国も終焉を迎える。1814年4月6日、ナポレオンは即座に退位を表明し、11日にはそれが公認された。16日にはボアルネはオーストリアの元帥ベッレガルデと休戦することを連絡しあい、王位はナポレオンの敗北から救われる事が出来るのではないかと期待した。
激昂した群集が起こした私刑による財務大臣ジュゼッペ・プリーナの死など、4月20日のミラノの無秩序の後、ボアルネはやはり住民の支持がないことを知った。人々は実際、それをフランスへの憎しみと同一視していた。ボアルネは4月26日に副王位を辞し、翌日にバイエルン王国に亡命してイタリアを後にした。ナポレオンのイタリア王国はこのような終焉となった。
関連項目
- ナポレオン・ボナパルト
- ジョアシャン・ミュラ
- フランス第一帝政
- ナポレオン戦争
- イタリア戦争
- スバルピーナ共和国
- チスパダーナ共和国
- トランスパダーナ共和国
- チザルピーナ共和国
- ロマーナ共和国
- ナポレターナ共和国
- ナポリ王国
- シチリア王国
- サルデーニャ王国
- イタリア共和国 (1802年-1805年)
- 統一以前のイタリアの国
- ウィーン会議
外部リンク
- Napitalia ナポレオン下のイタリア王国の軍隊