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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[秦氏]]の流れを汲む。[[明治]]36年(1903年)4月28日[[長野県]][[小県郡]][[和田村 (長野県小県郡)|和田村]](現[[長和町]])に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学、[[新潟高等学校 (旧制)|旧制新潟高等学校]]を経て、[[昭和]]4年([[1929年]])[[東北大学|東北帝国大学]]法文学部卒業。東北帝大では、[[阿部次郎]]に師事する。
[[明治]]36年(1903年)4月28日[[長野県]][[小県郡]][[和田村 (長野県小県郡)|和田村]](現[[長和町]])に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学、[[新潟高等学校 (旧制)|旧制新潟高等学校]]を経て、[[昭和]]4年([[1929年]])[[東北大学|東北帝国大学]]法文学部卒業。東北帝大では、[[阿部次郎]]に師事する。


東北帝大を卒業後、[[朝日新聞|東京朝日新聞社]]に入社し、記者となる。最初に配属になった[[北海道]][[札幌市|札幌]]支局時代、農民大会に出て演説をぶち、本社に帰される羽目になり、さらに帰京の見送りの際、たまたま通りかかった代議士にアカの記者呼ばわりされたため、横っ面をひっぱたいて、東京本社のデスクだった[[細川隆元]]に叱られたというエピソードが残る。
東北帝大を卒業後、[[朝日新聞|東京朝日新聞社]]に入社し、記者となる。最初に配属になった[[北海道]][[札幌市|札幌]]支局時代、農民大会に出て演説をぶち、本社に帰される羽目になり、さらに帰京の見送りの際、たまたま通りかかった代議士にアカの記者呼ばわりされたため、横っ面をひっぱたいて、東京本社のデスクだった[[細川隆元]]に叱られたというエピソードが残る。

2012年8月7日 (火) 05:57時点における版

羽田武嗣郎
はた ぶしろう
生年月日 (1903-04-28) 1903年4月28日
出生地 長野県小県郡和田村
没年月日 (1979-08-08) 1979年8月8日(76歳没)
出身校 東北帝国大学
親族 羽田孜(長男)、羽田雄一郎(孫)
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羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年4月28日 - 1979年8月8日)は、日本政治家衆議院議員。元内閣総理大臣羽田孜の父。

来歴・人物

明治36年(1903年)4月28日長野県小県郡和田村(現長和町)に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学、旧制新潟高等学校を経て、昭和4年(1929年東北帝国大学法文学部卒業。東北帝大では、阿部次郎に師事する。

東北帝大を卒業後、東京朝日新聞社に入社し、記者となる。最初に配属になった北海道札幌支局時代、農民大会に出て演説をぶち、本社に帰される羽目になり、さらに帰京の見送りの際、たまたま通りかかった代議士にアカの記者呼ばわりされたため、横っ面をひっぱたいて、東京本社のデスクだった細川隆元に叱られたというエピソードが残る。

政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、昭和12年(1937年4月20日立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する。同年6月岩波書店岩波茂雄の勧めで羽田書店を開業し、出版業を始める。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。昭和17年(1942年翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。戦後、日本進歩党の結成に参加するが、翼賛議員だったことが原因で公職追放になる。昭和27年(1952年)追放解除となる。農林政務次官自由党政調副会長を歴任する。昭和30年(1955年自由民主党に参加する。自由民主党では石井派に所属し、党副幹事長、衆議院建設委員長などを務める。昭和38年(1963年脳出血の発作に襲われる。病魔に苦しみながらも昭和42年(1967年1月29日第31回総選挙に立候補し当選する。しかしその後も満足な政治活動が困難になり、昭和44年(1969年)引退。後援会の意向もあり長男の羽田孜が後継者となった。昭和54年(1979年)8月8日、76歳にて死去。

参考

  • 羽田武嗣郎伝 (羽田武嗣郎伝記刊行会 1974年4月)
議会
先代
堀川恭平
日本の旗 衆議院建設委員長
1959年 - 1960年
次代
大倉三郎