「葛原親王」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m bot: WP:BOTREQ#令制国の守・介カテゴリの除去 oldid=41765954 |
|||
67行目: | 67行目: | ||
{{デフォルトソート:かすらわらしんのう}} |
{{デフォルトソート:かすらわらしんのう}} |
||
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]] |
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]] |
||
[[Category:上野太守]] |
|||
[[Category:常陸太守]] |
|||
[[Category:786年生]] |
[[Category:786年生]] |
||
[[Category:853年没]] |
[[Category:853年没]] |
2012年3月23日 (金) 15:40時点における版
葛原親王 (かずらわらしんのう) | |
---|---|
葛原親王 『前賢故実』より | |
続柄 | 桓武天皇の第 3皇子 |
身位 |
親王 一品 |
出生 |
延暦5年11月7日(786年12月1日) 日本・山城国 |
死去 |
仁寿3年6月4日(853年7月13日) 日本・山城国 |
埋葬 |
不明 日本・京都府乙訓郡大山崎町(伝承) |
配偶者 | 正室:不詳 |
子女 |
第 1王子:高棟王(子孫は堂上家 5家) 第 2王子:善棟王 王子:高見王?(子孫は武家平氏) |
父親 | 桓武天皇(第50代天皇) |
母親 | 多冶比真宗(貞子) - (多治比長野の娘) |
役職 | 大宰帥 |
葛原親王(かずらわらしんのう、延暦5年11月7日(786年12月1日) - 仁寿3年6月4日(853年7月13日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。
経歴
延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年)四品・治部卿に叙任されて以降、大蔵卿・弾正尹・式部卿・大宰帥を歴任し、この間大同4年(809年)三品、弘仁7年(816年)二品と昇進している。
天長2年(825年)子女を臣籍降下させ平(たいら)の姓を称することを上奏して許さる。のち、上野太守、常陸太守を兼務して、天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。
承和2年(835年)甲斐国巨麻郡の牧であった「馬相野空閑地五百町」(現在の山梨県南アルプス市)を与えられている。嘉祥3年(850年)には再度大宰帥に任じられた。
仁寿3年(853年)6月4日に薨去した。享年68。最終官位は一品大宰帥。遺言により葬儀は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。
親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、六国史の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」[1]と親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていたことが記されている。
人物
幼少から俊秀として知られていた。史伝を精読しており、歴史上の成功あるいは失敗例を以て自らの戒めとしたという。恭しく慎み深い性格で、傲り高ぶるようなことがなかった。[1]
系譜
脚注
参考文献
- 安田政彦『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年) ISBN 978-4-642-02330-6