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;江戸時代前期~中期:男色文化全盛・庶民への広がり
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江戸時代に入ると男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道」と呼ばれ、また「若道」とも呼ばれた。[[陰間]]遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、『[[東海道中膝栗毛]]』には喜多八はそもそも[[弥次郎兵衛]]の馴染の陰間であったことが述べられており、『[[好色一代男]]』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては[[近代]]まで男色は[[変態]]的な行為少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為だなどとは全く見なされていなかった。
江戸時代に入ると男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道」と呼ばれ、また「若道」とも呼ばれた。[[陰間]]遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、『[[東海道中膝栗毛]]』には喜多八はそもそも[[弥次郎兵衛]]の馴染の陰間であったことが述べられており、『[[好色一代男]]』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては[[近代]]まで男色は、女色と比較して倫理的に問題がある行為だなどとは全く見なされていなかった。


;江戸時代後期~明治時代:男色文化は衰退へ
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2010年12月4日 (土) 20:59時点における版

衆道(しゅどう)とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛少年愛の名称・形態。別名「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)。平安時代公家僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。

「衆道物語」 1661.

歴史

衆道の日本における最初の記録は、日本書紀神功皇后の項にある。「摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が語ることには、神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追い、両人を合葬した「阿豆那比(アヅナヒ)之罪」のなせる業であるという。そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬すると、直ちに日が照り出した」との記述がある。ある説によれば、この「阿豆那比」こそが日本最古の男色の記述であるとする。 また「続日本紀」には、天武天皇の孫である道祖王が、聖武天皇の喪中に侍児と男色を行ったとして廃太子とされた記述が見える。

男色文化の始まり

日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には、僧侶が性交する事(女色)を忌避する「女犯」というものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者達である)。近代までの俗説的な資料によれば、衆道の元祖は弘法大師空海といわれている。

平安時代:寺社から公家への広がり

平安時代にはその流行が公家にも及び、その片鱗は、たとえば複数の男性と関係した事を明言している藤原頼長の日記『台記』にうかがえる。また源義経と、弁慶佐藤継信佐藤忠信兄弟との主従関係にも、制度的な片鱗を見出す説もある。北畠親房が『神皇正統記』の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている(室町時代においては、足利義満世阿弥の男色関係が芸能の発展において多大な影響があったとされている)。

戦国時代:戦国武将と男色

戦国時代には、戦国大名小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長前田利家森成利(蘭丸)[1]ら、武田信玄高坂昌信伊達政宗片倉重長只野作十郎[2]上杉景勝清野長範[3]などが有名な例としてあげられる[4]武士道と男色は当然ながら何ら矛盾するものとは考えられておらず、例えば江戸時代中期に書かれた「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある。

江戸時代前期~中期:男色文化全盛・庶民への広がり

江戸時代に入ると男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道」と呼ばれ、また「若道」とも呼ばれた。陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、『東海道中膝栗毛』には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては近代まで男色は、女色と比較して倫理的に問題がある行為だなどとは全く見なされていなかった。

江戸時代後期~明治時代:男色文化は衰退へ

しかし江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも念友を大切にし、美童をめぐる刃傷沙汰が頻発したため、問題視されるようになる。米沢藩上杉治憲安永4年(1775年)に男色を衆道と称し、厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕府でも寛政の改革天保の改革などで徹底的な風俗粛清が行われると衰退し始めた。幕末には一部の地域や大名クラスを除いては、あまり行われなくなっていき、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視されるような状況となるに至った[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐(罪)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である。

用語

  • 陰子(かげこ) - まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。
  • 陰間(かげま) - 売春をする若衆。
  • 飛子(とびこ) - 流しの陰間。
  • 念此(ねんごろ) - 男色の契りを結ぶ。
  • 念者(ねんじゃ) - 若衆をかわいがる男役(立ち側ないし攻め側)。兄分とも。
  • 若衆(わかしゅ/わかしゅう) - 受け手(受け側)の少年、若者。
  • 竜陽君 - 陰間の異称。由来は哀公の寵臣の名。

脚註

  1. ^ 信長と森乱丸(蘭丸)の関係については異説ならびに異論もある。詳細は森成利参照。
  2. ^ 信玄と昌信、政宗と作十郎(勝吉)については一次史料である書状が現存している。ただし、高坂のものは該当する史料に改変の痕跡があり、近年では信玄との関係を疑問視されている。
  3. ^ 景勝と長範について記す史書は江戸時代になって成立したもので二次史料ではあるが、当時の長範の知行等の待遇や逸話などから考えると、景勝と長範が実際に男色関係にあった可能性もあると推論されている。
  4. ^ 戦国時代の主従間の男色関係の中には、主君の主導によらないとされる関係もある。浮気を謝罪する内容である信玄から昌信へ宛てたとする手紙は、その一例である。

参考文献

関連項目

外部リンク