「ブランデンブルク辺境伯領」の版間の差分
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2010年4月21日 (水) 04:41時点における版
- ブランデンブルク辺境伯領
- Mark/Markgrafschaft Brandenburg
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← 1157年 - 1806年 → (国旗) -
公用語 ドイツ語 首都 ブランデンブルク
ベルリン(1417年より)- 辺境伯
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1157 - 1170 アルブレヒト1世 1568 - 1618 アルブレヒト・フリードリヒ - 変遷
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辺境伯領建設 1157年10月3日 選帝侯へ 1356年12月25日 プロシアと同君連合 1618年8月27日 プロイセン王国 1701年1月1日 神聖ローマ帝国の解散 1806年8月6日
ブランデンブルク辺境伯( -へんきょうはく)は、神聖ローマ帝国の貴族。選帝侯のひとつ。ドイツの北東部を領地とした。その領地は現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。
ブランデンブルク辺境伯の所領はブランデンブルク辺境伯領(Mark Brandenburg)とよばれる。辺境において勢力を徐々に拡大し、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツ統一の主役となった。
概要
ブランデンブルク辺境伯領は、アルブレヒト1世を初代ブランデンブルク辺境伯として1157年に設置された。アルブレヒトの死後は息子オットーがブランデンブルク辺境伯となり、ポーランドへと領地を延ばした。13世紀半ばの重要な発展としては、ベルリン(1242年)、フランクフルト・アン・デア・オーダー(1253年)の開基と、シュテッティンおよびウッカーマルクの獲得(1250年)が挙げられる。
アスカーニエン家が1320年に断絶した後、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世がブランデンブルク辺境伯領を獲得、以降ヴィッテルスバッハ家の世襲となるも、1373年にルクセンブルク家のカール4世がオットー5世(ルートヴィヒ4世の6男)から辺境伯領を取得し、長男のヴェンツェルに与えた。
1415年、ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク辺境伯としてはフリードリヒ1世)が神聖ローマ皇帝ジギスムント(カール4世の次男、ヴェンツェルの異母弟)からブランデンブルク選帝侯位を獲得し、ベルリンを居城とした。1539年にはヨアヒム2世がルター派に改宗した。ホーエンツォレルン家は17世紀前半の三十年戦争の頃から台頭し始め、主に結婚によって領土や権威を獲得した。
1618年には神聖ローマ帝国の領外であったプロシア公領との婚姻関係から同君連合ブランデンブルク=プロイセンとなった。また、1648年には後ポンメルン (de:Hinterpommern) (現在のポーランド領西ポモージェ県)を獲得した。ホーエンツォレルン家は政治的影響力を拡大しようと努め、さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)によって、デンマーク、スウェーデン、ポーランド王国に対する優位を主張しつつ、西部ではフランスと対立することになる。北方戦争時にはプロシア公領をポーランドの支配下から完全に独立させた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が没するとフリードリヒ3世があとを継いだ。彼はスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に付き、その見返りに1701年、ハプスブルク家から本来ローマ帝国領外であったプロシア公領の王(プロイセン王)としての称号を得て、プロイセン王国が成立した。この結果ブランデンブルク選帝侯の地位はプロイセン王と兼任されることになり、ブランデンブルク辺境伯領はプロイセン王国の一部のように扱われるようになる。ブランデンブルク選帝侯領はプロイセン王国の成立後も神聖ローマ帝国の領邦として留まったが、神聖ローマ帝国が正式に解体された1806年に正式にプロイセン王国領ブランデンブルク州となった。
その後ブランデンブルク州は一貫してドイツの中核的な州であったが、第二次世界大戦後、1945年にオーデル・ナイセ線により、東のポーランド領と西のドイツ領に分割された。
歴代領主一覧
ブランデンブルク辺境伯
アスカーニエン家
- アルブレヒト1世(熊公、在位:1134年 - 1170年)
- オットー1世(在位:1170年 - 1184年)
- オットー2世(在位:1184年 - 1205年)
- アルブレヒト2世(在位:1205年 - 1220年)
- ヨハン1世(在位:1220年 - 1266年)
- オットー3世(在位:1220年 - 1267年)
- ヨハン2世(在位:1266年 - 1282年)
- コンラート(在位:1266年 - 1304年)
- オットー4世(在位:1266年 - 1308年)
- ハインリヒ1世(在位:1266年 - 1318年)
- ヴァルデマール(在位:1304年 - 1319年)
- ハインリヒ2世(在位:1319年 - 1320年)
ヴィッテルスバッハ家
ブランデンブルク選帝侯
ヴィッテルスバッハ家
ルクセンブルク家
- ヴェンツェル(在位:1373年 - 1378年)
- ジギスムント(在位:1378年 - 1388年)
- ヨープスト(在位:1388年 - 1411年)
- ジギスムント(復位、在位:1411年 - 1415年)
ホーエンツォレルン家
- フリードリヒ1世(在位:1415年 - 1440年)
- フリードリヒ2世(在位:1440年 - 1470年)
- アルブレヒト・アヒレス(在位:1470年 - 1486年)
- ヨーハン・ツィーツェロ(在位:1486年 - 1499年)
- ヨアヒム1世ネストル(在位:1499年 - 1535年)
- ヨアヒム2世ヘクトル(在位:1535年 - 1571年)
- ヨーハン・ゲオルク(在位:1571年 - 1598年)
- ヨアヒム・フリードリヒ(在位:1598年 - 1608年)
- ヨーハン・ジギスムント(在位:1608年 - 1619年)
- 1618年以降はプロイセン公も兼ねる。
- ゲオルク・ヴィルヘルム(在位:1619年 - 1640年)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯、在位:1640年 - 1688年)
- フリードリヒ3世(在位:1688年 - 1713年)
- 1701年、フリードリヒ3世は「プロイセンの王(Könige in Preußen)」の称号を獲得(プロイセン王としてはフリードリヒ1世)。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王、在位:1713年 - 1740年)兼プロイセン王
- フリードリヒ4世(大王、在位:1740年 - 1786年、プロイセン王としてはフリードリヒ2世)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位:1786年 - 1797年)兼プロイセン王
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位:1797年 - 1806年)兼プロイセン王