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シールやニュートンら指導部は[[共産主義]]の影響を受けており、[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[チェ・ゲバラ]]、[[フランツ・ファノン]]らの思想に共鳴していたが、とりわけ[[毛沢東]]から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者が中国を訪問している。ただしマルクスが[[ルンペンプロレタリアート]]の反動的な性格を指摘していたのに対し、ニュートンらはルンペンを社会主義革命の中心と見なしていた。
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彼らは[[アメリカ合衆国]]における黒人社会を[[第三世界]]、[[植民地]]である考え、合衆国と敵対関係にあった[[ベトナム]]や[[朝鮮民主主義人民共和国]]、[[キューバ]]といった国々に対して連帯の意思を表明していた。また、アメリカ統治下の[[沖縄県|沖縄]]にも駐留米軍内部に党員が存在し、日本本土にも、「[[黒豹党支援日本委員会]]」という団体があった。
彼らは[[アメリカ合衆国]]における黒人社会を[[第三世界]]、[[植民地]]と見做し、合衆国と敵対関係にあった[[ベトナム]]や[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)、[[キューバ]]といった国々に対して連帯の意思を表明していた。また、アメリカ統治下の[[沖縄県|沖縄]]にも駐留米軍内部に党員が存在し([[毎日新聞]]1969年9月10日付より)、日本本土にも、「[[黒豹党支援日本委員会]]」という団体があった。


ニュートンやシールは、彼らの標榜する民族主義を「革命的民族主義」と定義し、[[帝国主義]]的な面を持つ「反動的民族主義」と区別している。ニュートンによれば、「革命的民族主義」は、全世界の被抑圧民族との連帯および帝国主義との闘争を目的としたもので、搾取的な性格を持つ「反動的民族主義」は別のものである。ブラックパンサー党は[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]そして[[アメリカ合衆国]]国内の被差別民族との連帯を宣言し、彼らの思想を「インターコミューナリズム」と名づけ、[[機関紙]]「ザ・ブラック・パンサー」に、海外の闘争を紹介する「インターコミューナル・ニュース」を掲載した。
ニュートンやシールは、彼らの標榜する民族主義を「革命的民族主義」と定義し、搾取的な面を持つ「反動的民族主義」と区別している。ニュートンによれば、「革命的民族主義」は、全世界の被抑圧民族との連帯および帝国主義との闘争を目的としたもので、「反動的民族主義」は別のものである。ブラックパンサー党は[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]そして[[アメリカ合衆国]]国内の被差別民族との連帯を宣言し、彼らの思想を「インターコミューナリズム」と名づけ、[[機関紙]]「ザ・ブラック・パンサー」に、海外の闘争を紹介する「インターコミューナル・ニュース」を掲載した。


BPPは[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]に「海外局」を設置し、[[アルジェリア]]や[[キューバ]]に亡命した党員が拠点を置いた。[[1970年]]には[[南ベトナム解放民族戦線]]に対し、[[義勇兵]]の派遣を申し入れている。国内では、合衆国本土に移住した[[プエルトリコ|プエルトリコ人]]の自衛組織[[ヤングローズ]]や[[中国系アメリカ人]]の政治団体[[紅衛党]]、[[プアホワイト]]と呼ばれる白人貧困層の団体[[ヤングパトリオット]]、[[イッピー]]を中心とする白人青年ラディカルの[[青年国際党]]、学生を中心とする[[民主的社会のための学生同盟]](SDS)といった左派の組織と連帯して反差別、[[反戦運動|反戦闘争]]を闘った。女性解放を目的とする[[フェミニズム]]運動や[[LGBT]]の地位向上を目指す[[同性愛者解放戦線]](Gay Liberation Front)とも連帯した。
BPPは[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]に「海外局」を設置し、一部の党員は[[アルジェリア]]や[[キューバ]]に亡命した。[[1970年]]には[[南ベトナム解放民族戦線]]に対し、[[義勇兵]]の派遣を申し入れている。国内では、合衆国本土に移住した[[プエルトリコ|プエルトリコ人]]の自衛組織[[ヤングローズ]]や[[中国系アメリカ人]]の政治団体[[紅衛党]]、[[プアホワイト]]と呼ばれる白人貧困層の政治団体[[ヤングパトリオット]]、[[イッピー]]を中心とする白人青年ラディカルの[[青年国際党]]、学生を中心とする[[民主的社会のための学生同盟]](SDS)といった左派の組織と連帯して反差別、[[反戦運動|反戦闘争]]を闘った。女性解放を目的とする[[フェミニズム]]運動や[[LGBT]]の地位向上を目指す[[同性愛者解放戦線]](Gay Liberation Front)とも連帯した。


====十項目綱領====
====十項目綱領====

2010年4月5日 (月) 14:49時点における版

ブラックパンサー党
Black Panther Party
略称 BPP
設立 1967年
設立者 ヒューイ・P・ニュートン
ボビー・シール
種類 黒人解放武装組織、左翼
法的地位 非合法
目的 革命による黒人解放
本部 カリフォルニア州オークランド
所在地 アメリカ合衆国
公用語 英語
重要人物 毛沢東
主要機関 人民病院
関連組織 ヤングローズ
紅衛党
ヤングパトリオット
青年国際党
民主的社会のための学生同盟
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ブラックパンサー党(黒豹党、: Black Panther Party, BPP)は、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカ黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織。1966年、カリフォルニア州オークランドにおいてヒューイ・P・ニュートンボビー・シールにより、都市部の貧しい黒人が居住するゲットーを警官から自衛するために結成された。共産主義民族主義を標榜しており、革命による黒人解放を提唱し、アフリカ系アメリカ人に対し武装蜂起を呼びかけた。また、貧困層の児童に対する無料の食事配給や、治療費が無料の「人民病院」の建設を行った。日本では、かつて新聞などで「黒豹党」と呼ばれることが多かった。

歴史

1965年公民権運動を指導していたマルコムXの暗殺後に活動を開始し、1968年マーティン・ルーサー・キングが暗殺されてから活動は盛り上がりを見せた。

結成

1965年、ニュートンとシールは、オークランドに支部を持つ、ロバート・ウィリアムズ率いる公民権運動団体「革命的行動運動(Revolutionaly Action Movement,通称RAM)』に加入した。ウィリアムズは初めはノースカロライナ州、のちに中華人民共和国から「クルセイダー」という機関紙を出していた。この組織は暴力的だと見られており、1965年、東海岸の党員が、ニューヨーク自由の女神像自由の鐘ワシントン記念塔を爆破しようとしたかどで起訴されている。

オークランド支部の構成員のほとんどは学生で、そのうちニュートンとシールは最も戦闘的な意見を持っていた。この間、オークランド市北部の貧困対策センターで働いていた2人は市当局に対し、警官の暴力行為について調査する委員会を置くよう、500人の署名を集めた。また、この頃ニュートンは市立メリット・カレッジとサンフランシスコ・ロー・スクールで法学を学んでおり、ここで得た法律の知識は後に党での活動に役立つこととなった。このような活動の中で2人は同志を集め、1967年ブラックパンサー党を結成した。このとき、彼らは党の目標を示した十項目綱領を作り、ヒューイの弟メルヴィンの提案で、アフロヘアーにし、ユニフォームとして青いシャツ、黒いジャケットとズボン、黒いベレー帽を着用し、ショットガンで武装することを決めた。

思想

BPPは、戦闘的な面ではマルコムXの暴力主義を受けつぎ、マーティン・ルーサー・キング非暴力主義を否定していた学生非暴力調整委員会(SNCC)のストークリー・カーマイケルを一時期、党の主席に迎えたが、思想などの面で意見が合わず、離党した。非暴力主義には批判的であったが、キング牧師個人には尊敬の念を抱いていた。

シールやニュートンら指導部は共産主義の影響を受けており、マルクスエンゲルスレーニンスターリンチェ・ゲバラフランツ・ファノンらの思想に共鳴していたが、とりわけ毛沢東から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者が中国を訪問している。ただしマルクスがルンペンプロレタリアートの反動的な性格を指摘していたのに対し、ニュートンらはルンペンを社会主義革命の中心と見なしていた。

彼らはアメリカ合衆国における黒人社会を第三世界植民地と見做し、合衆国と敵対関係にあったベトナム朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、キューバといった国々に対して連帯の意思を表明していた。また、アメリカ統治下の沖縄にも駐留米軍内部に党員が存在し(毎日新聞1969年9月10日付より)、日本本土にも、「黒豹党支援日本委員会」という団体があった。

ニュートンやシールは、彼らの標榜する民族主義を「革命的民族主義」と定義し、搾取的な面を持つ「反動的民族主義」と区別している。ニュートンによれば、「革命的民族主義」は、全世界の被抑圧民族との連帯および帝国主義との闘争を目的としたもので、「反動的民族主義」は別のものである。ブラックパンサー党はアジアアフリカラテンアメリカそしてアメリカ合衆国国内の被差別民族との連帯を宣言し、彼らの思想を「インターコミューナリズム」と名づけ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」に、海外の闘争を紹介する「インターコミューナル・ニュース」を掲載した。

BPPはスウェーデンストックホルムに「海外局」を設置し、一部の党員はアルジェリアキューバに亡命した。1970年には南ベトナム解放民族戦線に対し、義勇兵の派遣を申し入れている。国内では、合衆国本土に移住したプエルトリコ人の自衛組織ヤングローズ中国系アメリカ人の政治団体紅衛党プアホワイトと呼ばれる白人貧困層の政治団体ヤングパトリオットイッピーを中心とする白人青年ラディカルの青年国際党、学生を中心とする民主的社会のための学生同盟(SDS)といった左派の組織と連帯して反差別、反戦闘争を闘った。女性解放を目的とするフェミニズム運動やLGBTの地位向上を目指す同性愛者解放戦線(Gay Liberation Front)とも連帯した。

十項目綱領

党の結成直後、次の項目が決定された。

  • 我々は、我々黒人および抑圧されたコミュニティーの運命を決定する力を欲する。
  • 我々は、我々人民の完全な雇用を欲する。
  • 我々は、資本家による、我々コミュニティーに対する搾取の終わりを欲する。
  • 我々は、人間が居住するに値する最低限の住宅を欲する。
  • 我々は、人民のための、アメリカ社会の真実を暴露する教育を求める。
  • 我々は、真実の歴史と、今日の社会における我々の役割を教える教育を欲する。
  • 我々はすべての黒人と、抑圧された人民の完全な健康を欲する。
  • 我々は警官による、アメリカ合衆国国内における黒人および抑圧されたほかの人種の人々に対する暴力行為の即時停止を欲する。
  • 我々は、すべての侵略戦争の即時中止を欲する。
  • 我々は、国立、州立、地方、都市、および軍の刑務所に収監されている黒人の解放を欲する。我々は、この国の法律のもとでいわゆる犯罪のために告訴された囚人のために、同じ階層出身の陪審員による裁判を欲する。
  • 我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和および現代技術によるコミュニティーの統治を欲する。

活動

奉仕計画

毛沢東語録に影響を受けたヒューイ・P・ニュートンら党指導部は、1968年頃から党員に「人民に奉仕せよ」と指示し、黒人をはじめとする貧困層の人々に対する社会奉仕活動を開始した。

まず、栄養が不十分な貧困層の児童に対し、朝食を無料で配給する「無料朝食プログラム」を開始した。これにより、述べ1万人の児童が朝食を得ることができた。

また、治療費が無料の「人民病院」を建設し、鎌状赤血球症の調査を行い、50万人の人々が鎌状赤血球症に罹患していることを明らかにし、応急処置など治療も行った。

警察、FBIとの闘争

1968年、党員数は当初の400人から5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行された。当初BPPは、警官によるゲットーの人々への暴行に対する自衛を目的に、銃と六法全書を携行して警官に対する逆パトロールを行った。

1967年5月2日、30名の党員が銃を持ってカリフォルニア州サクラメントの州議会前で演説した後で中に入り、逮捕された。このとき、州議会ではブラックパンサーによる逆パトロールの取締りを目的とした銃の規制を審議していた。

J・エドガー・フーバー率いる連邦捜査局(FBI)は危機感を抱き、ブラックパンサーに対する弾圧を開始した。4月7日オークランドにおいて、翌日に予定されていたピクニックの買い物をしていた17歳の党員ボビー・ハットンが警官に襲われ、射殺された。このときハットンは丸裸になり、武装していないことを警官に示そうとしたが、聞き入れられなかった。

1969年、議長ボビー・シールが6人の党員とともにシカゴで逮捕され、16の罪状によって起訴され、懲役四年の刑を宣告された。1971年には、1968年に起こった警官殺害の罪で起訴されたが、不起訴処分とされた。ボビーは獄中で手記「時代を獲得せよ」を出版した(この本はパブリック・ドメインであり、インターネット上で読める)。12月4日イリノイ州クック郡において、地元警察とFBIがイリノイ州議長フレッド・ハンプトンの自宅を襲撃し、射殺した。

1970年4月2日ニューヨークで21人の党員が、警官殺害とビル爆破の陰謀を企てたとして逮捕された。5月22日には、女性党員エリカ・ハギンズら8人がコネティカット州ニューヘヴンで起きた殺人事件の容疑者として逮捕された。参謀長のデイヴィッド・ヒリアードがベトナム反戦集会において当時の大統領リチャード・ニクソンに対する闘争の開始を扇動し、大統領暗殺未遂の罪で逮捕された。

これに先立つ1968年、党情報相のエルドリッジ・クリーヴァーが思想の違いからBPPを離脱し、党はシール・ニュートン派とクリーヴァー派に分裂した。

1970年8月ニューヨークで、BPPの分派である黒人解放軍に所属していた青年3名がパトロール中の警官2名を狙撃し、銃撃戦の末黒人1名が死亡する事件が発生した。また同年10月にはデトロイトで党員が警官と銃撃戦を展開するなどBPP側は反撃を試みている。

やがて、ニクソン政権の執拗な弾圧により党員が次々と逮捕され、1971年には政治的に柔軟化し、以後は地域社会における奉仕活動に専念し1970年代半ばにはほぼ党は解散していた。その後、クリーヴァー派の黒人解放軍が銃撃戦や爆弾攻撃、脱獄などで1980年代初頭まで抵抗を続けた。

近況

黒人解放軍の解体後、1989年に「新ブラックパンサー党(New Black Panther Party)が結成され、かつてのブラックパンサー党の後継者であると主張しているが、旧ブラックパンサー党が標榜していた共産主義毛沢東主義ではなく反白人・反ユダヤ主義を標榜している。

主要な党員

関連書籍

  • 『すべての権力を人民へ 黒豹党は闘いつづける』(現代書館、1972年)
  • 『ブラックパンサー エモリー・ダグラスの革命アート集』(ブルース・インターアクションズ、2008年)

関連項目

外部リンク