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離婚のわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下の[[アンジュー]]伯・[[ノルマンディー公]]アンリと結婚する。ルイ7世と近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承して[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]となると、フランス国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後13年間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーに愛人ができると夫婦仲は悪化し、[[1168年]]ごろ単身アキテーヌに戻ってしまう。
離婚のわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下の[[アンジュー]]伯・[[ノルマンディー公]]アンリと結婚する。ルイ7世と近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承して[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]となると、フランス国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後13年間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーに愛人ができると夫婦仲は悪化し、[[1168年]]ごろ単身アキテーヌに戻ってしまう。


[[1170年]]の[[トマス・ベケット]]の[[暗殺]]はアリエノールを激怒させた。[[1173年]]、ヘンリー2世の名目上の共同統治者に指名されていた次男の[[若ヘンリー王]]が父ヘンリー2世に対して反乱をおこすと、アリエノールはこれに加わろうとした。しかしヘンリー2世に捕えられ、以降15年にわたって監禁された。[[1183年]]若ヘンリーが死去すると、今度は3男[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]の反乱を支援した。後にリチャードが即位し、[[第3回十字軍]]を率いて遠征すると、[[摂政]]として[[プランタジネット朝#アンジュー帝国|アンジュー帝国]]を統治した。
[[1170年]]の[[トマス・ベケット]]の[[暗殺]]はアリエノールを激怒させた。[[1173年]]、ヘンリー2世の名目上の共同統治者に指名されていた次男の[[若ヘンリー王]]が父ヘンリー2世に対して反乱をおこすと、アリエノールはこれに加わろうとした。しかしヘンリー2世に捕えられ、以降15年にわたって監禁された。[[1183年]]若ヘンリーが死去すると、今度は3男[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]の反乱を支援した。後にリチャードが即位し、[[第3回十字軍]]を率いて遠征すると、[[摂政]]として[[アンジュー帝国]]を統治した。


当時としては稀な長寿を全うし、末子の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]がイングランド王の時、1204年に80歳で死去。
当時としては稀な長寿を全うし、末子の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]がイングランド王の時、1204年に80歳で死去。

2010年3月20日 (土) 05:13時点における版

アリエノール・ダキテーヌ

アリエノール・ダキテーヌAliénor d'Aquitaine, 1124年 - 1204年4月1日)は、アキテーヌギヨーム10世の娘でアキテーヌ女公。トルバドゥールで知られるギヨーム9世は祖父。はじめフランスルイ7世の王妃、次いでイングランドヘンリー2世の王妃。イングランド王リチャード1世ジョンの母親となり、当時の欧州で最も強力な女性と呼ばれた。

Aliénor(アリエノール)は南フランスのオック語の名前で、オイル語フランス語)でEléanor d'Aquitaine(エレアノール・ダキテーヌ)とも呼ばれる。英語ではEleanor of Aquitaine(エレノア・オブ・アクイテインなどと表記される)と呼ばれる。

生涯

フランス王妃としての前半生

アキテーヌは宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心地で、アリエノールはその雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時としては高い教育を受けて育った。兄ギヨームが1130年に早世したため、アリエノールはアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領ポワチエ伯領を相続、フランス全土の3分の1近くを支配する大領主となった。1137年、15歳でフランス王ルイ7世と結婚した。二人の間にはマリー、アリックスの娘2人が生まれたが男子には恵まれなかった。

1147年第2回十字軍に、アリエノールはアキテーヌ軍を引き連れ、夫ルイ7世と共に参加した。しかし、フランス軍が小アジアセルジューク朝軍に惨敗した時、アリエノールが危険な場所で休息したがった為だと非難された。アンティオキアに入り、アリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンを支援し、エデッサ伯領を奪回することを主張したのに対し、ルイ7世はこれに反対し、妃を拘束して、エルサレムに向かった。ダマスカスへの攻撃は失敗に終わり、2人はフランスに帰った。1152年に近親婚であるとして婚姻の無効が成立、離婚したが、実はアリエノールの不貞が原因だったともいわれる。

イングランド王妃としての後半生

離婚のわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下のアンジュー伯・ノルマンディー公アンリと結婚する。ルイ7世と近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承してヘンリー2世となると、フランス国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後13年間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーに愛人ができると夫婦仲は悪化し、1168年ごろ単身アキテーヌに戻ってしまう。

1170年トマス・ベケット暗殺はアリエノールを激怒させた。1173年、ヘンリー2世の名目上の共同統治者に指名されていた次男の若ヘンリー王が父ヘンリー2世に対して反乱をおこすと、アリエノールはこれに加わろうとした。しかしヘンリー2世に捕えられ、以降15年にわたって監禁された。1183年若ヘンリーが死去すると、今度は3男リチャードの反乱を支援した。後にリチャードが即位し、第3回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治した。

当時としては稀な長寿を全うし、末子のジョンがイングランド王の時、1204年に80歳で死去。

人物

  • アリエノールは奔放で多くの愛人を持っていたといわれる。また、息子の中ではリチャード獅子心王が最もお気に入りで、リチャードのロマンティシズムは母親譲りといわれている。
  • 彼女自身とカスティーリャに嫁いだ同名の娘が多産だったことで、政略結婚によりアリエノールの血筋はヨーロッパ各国に広がり、後世「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。
  • なおアリエノールはフランス王とイングランド王の両方と婚姻関係を結んだことで、広大なアキテーヌ公領の所有問題を引き起こし、これが後の百年戦争の遠因となった。

子女

夫:フランス王ルイ7世

  • 1137(流産)
  • マリー(1145年 - 1198年) - シャンパーニュ伯アンリ1世妃
  • アリックス(1150年 - 1183年) - ブロワ伯ティボー5世妃

夫:イングランド王ヘンリー2世

関連書籍

関連項目

先代
ギヨーム10世
アキテーヌ女公
1137 - 1204
ルイアンリ1世オトン
リシャール1世ジャン1世と共同統治
次代
ジャン1世
先代
ギヨーム10世
ポワチエ女伯
1137 - 1153
次代
ギヨーム