「アリエノール・ダキテーヌ」の版間の差分
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離婚のわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下の[[アンジュー]]伯・[[ノルマンディー公]]アンリと結婚する。ルイ7世と近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承して[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]となると、フランス国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後13年間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーに愛人ができると夫婦仲は悪化し、[[1168年]]ごろ単身アキテーヌに戻ってしまう。 |
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当時としては稀な長寿を全うし、末子の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]がイングランド王の時、1204年に80歳で死去。 |
2010年3月20日 (土) 05:13時点における版
アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, 1124年 - 1204年4月1日)は、アキテーヌ公ギヨーム10世の娘でアキテーヌ女公。トルバドゥールで知られるギヨーム9世は祖父。はじめフランス王ルイ7世の王妃、次いでイングランド王ヘンリー2世の王妃。イングランド王リチャード1世、ジョンの母親となり、当時の欧州で最も強力な女性と呼ばれた。
Aliénor(アリエノール)は南フランスのオック語の名前で、オイル語(フランス語)でEléanor d'Aquitaine(エレアノール・ダキテーヌ)とも呼ばれる。英語ではEleanor of Aquitaine(エレノア・オブ・アクイテインなどと表記される)と呼ばれる。
生涯
フランス王妃としての前半生
アキテーヌは宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心地で、アリエノールはその雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時としては高い教育を受けて育った。兄ギヨームが1130年に早世したため、アリエノールはアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワチエ伯領を相続、フランス全土の3分の1近くを支配する大領主となった。1137年、15歳でフランス王ルイ7世と結婚した。二人の間にはマリー、アリックスの娘2人が生まれたが男子には恵まれなかった。
1147年の第2回十字軍に、アリエノールはアキテーヌ軍を引き連れ、夫ルイ7世と共に参加した。しかし、フランス軍が小アジアでセルジューク朝軍に惨敗した時、アリエノールが危険な場所で休息したがった為だと非難された。アンティオキアに入り、アリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンを支援し、エデッサ伯領を奪回することを主張したのに対し、ルイ7世はこれに反対し、妃を拘束して、エルサレムに向かった。ダマスカスへの攻撃は失敗に終わり、2人はフランスに帰った。1152年に近親婚であるとして婚姻の無効が成立、離婚したが、実はアリエノールの不貞が原因だったともいわれる。
イングランド王妃としての後半生
離婚のわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下のアンジュー伯・ノルマンディー公アンリと結婚する。ルイ7世と近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承してヘンリー2世となると、フランス国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後13年間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーに愛人ができると夫婦仲は悪化し、1168年ごろ単身アキテーヌに戻ってしまう。
1170年のトマス・ベケットの暗殺はアリエノールを激怒させた。1173年、ヘンリー2世の名目上の共同統治者に指名されていた次男の若ヘンリー王が父ヘンリー2世に対して反乱をおこすと、アリエノールはこれに加わろうとした。しかしヘンリー2世に捕えられ、以降15年にわたって監禁された。1183年若ヘンリーが死去すると、今度は3男リチャードの反乱を支援した。後にリチャードが即位し、第3回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治した。
当時としては稀な長寿を全うし、末子のジョンがイングランド王の時、1204年に80歳で死去。
人物
- アリエノールは奔放で多くの愛人を持っていたといわれる。また、息子の中ではリチャード獅子心王が最もお気に入りで、リチャードのロマンティシズムは母親譲りといわれている。
- 彼女自身とカスティーリャに嫁いだ同名の娘が多産だったことで、政略結婚によりアリエノールの血筋はヨーロッパ各国に広がり、後世「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。
- なおアリエノールはフランス王とイングランド王の両方と婚姻関係を結んだことで、広大なアキテーヌ公領の所有問題を引き起こし、これが後の百年戦争の遠因となった。
子女
夫:フランス王ルイ7世
- 1137(流産)
- マリー(1145年 - 1198年) - シャンパーニュ伯アンリ1世妃
- アリックス(1150年 - 1183年) - ブロワ伯ティボー5世妃
夫:イングランド王ヘンリー2世
- ウィリアム(1153年 - 1156年) - ポワチエ伯
- ヘンリー(1155年 - 1183年) - 1170年から1183年までイングランド王(父王と共治)
- マチルダ(1156年 - 1189年) - ザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ獅子公妃
- リチャード(1157年 - 1199年) - イングランド王(獅子心王)
- ジェフリー(1158年 - 1186年) - ブルターニュ公ジョフロワ2世
- エレノア(1162年 - 1215年) - カスティーリャ王アルフォンソ8世の王妃
- ジョーン(1165年 - 1199年) - シチリア王グリエルモ2世の王妃、のちトゥールーズ伯レーモン6世の妃
- ジョン(1167年 - 1216年) - イングランド王(欠地王)
関連書籍
- 『王妃エレアノール ― ふたつの国の王妃となった女』 石井美樹子著、平凡社、1988年刊行
- 漫画『花巡礼』 河惣益巳著、白泉社、1997年~1998年 アリエノールに仕えた女性とその娘、孫娘の3代の目を通して、彼女の生涯を辿っている。
関連項目
- 冬のライオン ― アメリカの舞台演劇。1968年の映画版ではキャサリン・ヘプバーンが、2003年のテレビ版ではグレン・クロースが、エレノアを演じた。
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