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==概要==
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2009年12月7日 (月) 17:23時点における版

名張藤堂家
本姓 不詳
家祖 藤堂高吉
種別 武家
華族男爵
主な根拠地 伊賀国名張
東京都
凡例 / Category:日本の氏族

名張藤堂家(なばりとうどうけ)は、江戸時代藤堂氏の一門。代々宮内を称し、藤堂宮内家ともいう。藤堂高虎の養子・藤堂高吉を祖とする。



概要

高虎は実子に恵まれなかったため、養子として迎えた高吉を後継者にしようと考えていたが、慶長6年(1601年)に高虎に実子・藤堂高次が生まれると、その話も消滅する。伊予国今治城主(高虎の城代)となっていた高吉は、寛永7年(1630年)、養父高虎の死後、実子の高次の家臣として仕えるようになる。寛永9年(1632年)、松平定房が今治へ移封されることとなったため、伊勢国へ2万石の移封となった。しかしその後、寛永13年(1636年)、高次の命により更に伊賀国名張に移封された。次男以下3名に5000石を分知し、15000石となった。高次は高吉の存在を危険視したとされ(江戸幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれる。その後、享保年間まで名張藤堂氏と本家との対立は続いた。

1734年(享保19年)、藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけ、重臣達も幕府との交渉のため江戸に向かった。しかし、翌1735年(享保20年)本家の知るところとなり、一触即発の状態になった。最終的に、横田太右衛門・小沢宇右衛門・七条喜兵衛の3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹。長熙は隠居を命じられ、長美が跡を継いだ(享保騒動)。以降、本家から2名の横目付が派遣され、常時監視下に置かれるようになった。また、家臣の旅行や他家への使者派遣、あるいは他家からの使者を迎えるに当たっては、必ず本家の上野城代の許可が必要になった。

11代の高節の時に明治維新となり、子孫は現在も東京に在住する。歴代の墓所は、名張の徳蓮院にある。

高吉は、名張の高台の旧領主の筒井氏の家臣邸跡地に陣屋を構え、旧領今治より連れてきた商人、職人も城下に居住させ、名張の町の発展の礎を築いた。当初の屋敷は、3代長源の代の宝永7年(1710年)の名張大火で焼けてしまい、現存するものはその後に再建されたものであり、明治元年にその大部分が破却されたが、一部は居住部分を中心に残っている。上級武士の屋敷として、生活の場の中奥部分が残されていて、全国的に珍しく貴重な存在となっている。県文化財に指定されている。

歴代当主

  1. 藤堂高吉(たかよし)(1579-1670)
  2. 藤堂長正(ながまさ)(1614-1682)
  3. 藤堂長守(ながもり)(1647-1697)
  4. 藤堂長源(ながもと)(1689-1716)
  5. 藤堂長熙(ながひろ)(1698-1776)
  6. 藤堂長美(ながよし)(1732-1741)
  7. 藤堂長旧(ながひさ)(1738-1797)
  8. 藤堂長教(ながのり)(1779-1830)
  9. 藤堂長徳(ながのり)(1811-1864) 久居藩主・藤堂高邦の父。
  10. 藤堂高美(たかよし)(1824-1864)
  11. 藤堂高節(たかせつ)(?-1887)
  12. 藤堂高成(たかしげ)竹内治則の子で高節の養子となる。男爵神宮皇学館助教授。

系譜

凡例 太線は実子、細線は養子。
高虎高吉
 ┣━━━┓
長正  長則
 ┣━━━┓
長守  長定
 ┃   ┣━━━┓
長源  長熙  長桓
     ┣━━━┓
    長美  長旧
         ┃
        長教
         ┣━━━┓
        長誠  長徳
             ┃
            高邦

関連項目

外部リンク