藤堂高邦

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藤堂高邦
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化3年8月8日1846年9月28日
死没 明治35年(1902年4月6日
改名 寿次郎(幼名)、長邦(初名)、高邦、
南海・省耕堂(法号)
別名 公斎(字)
墓所 東京都港区南青山の青山墓地
官位 従五位下、佐渡
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂長徳、母:好子(真教院・新川氏)
養父:藤堂高聴藤堂高行
藤堂高聴の七女・澤子
文子(青山幸宜継々妻)、高亮(長男)、
養子:高義
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藤堂 高邦(とうどう たかくに)は、伊勢久居藩の第16代(最後)の藩主。久居藩藤堂家16代。久居陣屋最後の主。

生涯[編集]

弘化3年(1846年)8月8日、伊賀名張1万5000石の領主・名張藤堂家藤堂長徳の次男として生まれる。長徳の家系は、初代藩主・藤堂高虎の養子・藤堂高吉丹羽長秀の子)から始まる家系である。

文久3年(1863年)8月に第15代藩主・高聴が亡くなり、その嫡男である高行は安政6年(1859年)6月に死去していたため、同年10月19日に高邦が養子として家督を継いだ。同年12月6日に従五位下・佐渡守に叙位・任官する。

慶応2年(1866年)、山城宇治橋、伊勢山田の警護を務めた。慶応3年(1867年)12月3日に上洛し、28日に参内する。しかし、30日には帰藩の許可を得ている。慶応4年(1868年)3月4日、改めて上洛し、新政府側に従う姿勢を示した。戊辰戦争では東北に出兵し、新政府軍として戦った。明治2年(1869年)6月26日、版籍奉還により久居藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。

明治17年(1884年)の華族令子爵に任じられる。明治35年(1902年)4月6日に東京で死去した。享年57。跡は先代高聴の子の高義が継ぎ、実子の高亮は分家した。

家族[編集]

父母

子女

養子


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
久居藤堂家初代
1884年 - 1902年
次代
藤堂高義