藤堂高秭

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藤堂高秭
時代 江戸時代後期
生誕 寛政3年4月12日1791年5月14日
死没 嘉永4年2月21日1851年3月23日
改名 揉之助(幼名)、高秭、
冠壺・豊翁・揉斎(法号)
戒名 光徳院殿閑月豊翁大居士
墓所 東京都港区南青山の青山墓地
三重県津市寿町の寒松院
官位 従五位下、佐渡守、造酒正
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高嶷、母:今津氏娘・智峯院
養父:藤堂高邁
兄弟 菊松、甲、高嶽、順、高兌、穀、睦、挙、高邁、湧、埴、高允木下利徳高愨
高醸高秭、そよ、彩、つれ、絃、延
正室:内藤政韶三女・善姫
整子、細子、石田鉄雄、鈴子、重卯子、
錫子、寅久子、鋤抵若、土井利則
養子:高聴
特記
事項
の読みは「たかかず」ともいわれる
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藤堂 高秭(とうどう たかやつ)は、伊勢久居藩の第14代藩主。久居藩藤堂家14代。久居陣屋の主。

生涯[編集]

寛政3年(1791年)4月12日、第7代藩主・藤堂高敦(伊勢津藩の第9代藩主・藤堂高嶷)の十男として生まれる。文政元年(1818年)12月18日に同母兄で第13代藩主の高邁隠居し、高邁の子・高聴が9歳という幼少のため、兄の養子となって家督を継ぎ、12月28日に従五位下・佐渡守に叙位・任官する。

文政4年(1821年)3月20日に久居焼けという大火に見舞われ、直後に旱魃が起こるなどして藩政は悪化した。このため、文政5年(1822年)から藩政改革に着手し、文武の奨励や有能な人材登用に努め、文政6年(1823年)1月には経費節減、文政8年(1825年)に家臣の半知借上、孤児の救済、天保2年(1831年)12月8日に役人の知行を改定するなどしている。これらは成功して財政は再建された。

藤堂高秭の墓(寒松院)

天保3年(1832年)3月9日、家督を養子の高聴に譲って隠居し、造酒正に遷任する。嘉永4年(1851年)2月21日、江戸で死去した。享年61。

逸話として、高秭の善政を慕った領民が、天保4年(1833年)に250束の薪を献上したといわれている。

系譜[編集]

父母

正室

子女

養子