「本多流生弓会」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
久太郎 (会話 | 投稿記録)
→‎射法: 正面打起し
久太郎 (会話 | 投稿記録)
30行目: 30行目:


=== 本多利實 ===
=== 本多利實 ===
'''本多 利實'''(ほんだとしざね、[[1836年]] - [[1917年]])は、本多流流祖。旗本・竹林派家元本多利重長男、幼名橋之助、[[号 (称号)|号]]生弓斎。利實翁とも呼ばれる。6歳の時父に弓を学び始める。25歳、利重より日置流尾州竹林派皆伝印可を受ける。[[1867年]]32歳で家督を相続する。[[1869年]][[大学校 (1869年)|医学校]](現[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東大医学部]])勤務。[[1874年]][[文部省]]医務局分課[[種痘所]]勤務。[[1889年]][[明治維新]]後の弓術の荒廃を嘆いて『弓術保存教授及演説主意』を著し、弓術継続会を設立する。同年[[西巣鴨町|巣鴨村]]村長。[[1892年]][[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]弓術教授。[[1893年]][[八幡神社 (東京都港区虎ノ門)|西久保八幡神社]]祠宮。[[1901年]][[霞会館|華族会館]]弓術教授。[[1902年]][[東京大学|東京帝国大学]]弓術部師範。[[1905年]][[学習院]]弓術師範。その他いくつもの学校の師範を勤める。この頃竹林派の種々の伝書に註解を加えて正面の弓構え・打起しについても解説し、[[1908年]]『日置流竹林派弓術書』を出版公表する。[[1917年]]東京帝国大学に家元継承についての覚書などを預託する。同年[[東京都電車|東京市電]]の事故により死亡する。


=== 本多利時 ===
=== 本多利時 ===

2009年7月10日 (金) 08:06時点における版

本多流(ほんだりゅう)は、弓道の流派のひとつ。明治時代に本多利實日置流尾州竹林派の斜面の構えを正面の構えに改めて大三を取る射法を創始し、彼の弟子たちが本多流と名づけた。現今一般に行われている正面打起しのうち、大三を取る射法は本多利實によるものである。

概略

元来、斜面に構えて打ち起こす射法であった尾州竹林派を改め、正面に構えて打ち起こし、大三を取って後引き分けることを特色とする。 こうした新射法は、いわば礼射と武射の融合とも考えられ、明治維新後の時代背景と相まって、瞬く間に全国に広まった。 この新射法は、発案者である本多利實が東京帝国大学および旧制第一高校の各弓術部の師範となったことから、ここを拠点として広まったが、東京帝大出身者らが各界でそれぞれ重きをなしたことから、やがて設立された大日本武徳会、そして戦後に設立された全日本弓道連盟においても、本多流は中心的地位を占めるに至った。 現在、全日本弓道連盟において基本として指導されることが多いのも正面打起しの射法であるが、これも基本的に本多流の流れを汲むものであると言える。

なお、流祖である本多利實は、生前は自分の流派を「正面打起しの竹林派」と呼び、本多流とは呼んでいなかった。 本多流という呼称は利實の門弟らによって使われ始め、本多利時が二世宗家を継承する際に確立された。

射法

体の正面に構え、そのまま正面に打ち起こした後(正面打起し)、大三を経て引き分ける。 正面打起しを行うのは小笠原流と同様であるが、大三を取るという点では一線を画する。 また、本多流は四つガケを用いるとされることもあるが、実際には三つガケを用いる射手も多い。 とはいえ、流祖利實を始めとして、多くの本多流射手が四つガケを好んで使用している。

利實の著作によると、幕末の江戸ではすでに多くの武士が正面打起しを行なっており、自身も幼少時に修業を始めた時から正面打起しに慣れていたということである。しかし、竹林派の伝書には左方に弓構えをすると書かれており、『徳川吉宗の時代に小笠原に対して旗本の指南を命じられたため、騎射・礼射の弓構えを的前でも行なうようになったのであろう』『要前(戦場の歩射)では左方に構えなければならず、小笠原でもずっと以前はそうしていたと思う。馬上では正面に構える方が都合が良いが、的前ではどちらにも一得一失があり、たいした違いは無い』と考察している。実際に小笠原流の蟇目の儀等で斜面に打起す場合がある。これらのことを踏まえても、日置流系の射術書に正面打起しを著述したのは利實が最初であり、利實が「竹林派に正面打起しを取り入れた」と言える。

利實の高弟らは、当時「新射法」と呼ばれたこうした射法が姿勢の左右均衡を計り身体健康に適ったものであると唱え、かくして本多流は瞬く間に隆盛を極めるに至った。 その一方で、他流派の射手からは「本多の出っ尻帆掛け舟」などと、本多流の射法を揶揄する文言が聞かれたのも、また事実である。

利實の没後、本多流を継承・研究するため、利實の門弟らによって生弓会が発足した。 現在の本多流射法は、利實の射法を元として、生弓会によって徐々に確立されていったものであると言える。

宗家

本多流は尾州竹林派とされているが、竹林派には複数の系統があり、そのうち、長屋六左衛門忠重 - 星野勘左衛門茂則 - 渡邊甚左衛門寛(江戸住)と伝えられた江戸竹林の系統である。他にも江戸竹林と呼ばれる系統があり、正確には「日置流尾州竹林派六左衛門系の星野系江戸竹林派」と言える。

利實の父本多八十郎利重は江戸幕府旗本であり、家系としては本多忠政烏帽子子本多八十郎利友の11代である。家紋は「立ち葵」。血縁としては日置流竹林派(江戸竹林)家元伊藤金之丞實乾の次男で、旗本本多家の養子となる。實乾より家元を継いだ津金新十郎胤保から竹林派家元を継いだ。

本多利實

本多 利實(ほんだとしざね、1836年 - 1917年)は、本多流流祖。旗本・竹林派家元本多利重長男、幼名橋之助、生弓斎。利實翁とも呼ばれる。6歳の時父に弓を学び始める。25歳、利重より日置流尾州竹林派皆伝印可を受ける。1867年32歳で家督を相続する。1869年医学校(現東大医学部)勤務。1874年文部省医務局分課種痘所勤務。1889年明治維新後の弓術の荒廃を嘆いて『弓術保存教授及演説主意』を著し、弓術継続会を設立する。同年巣鴨村村長。1892年第一高等学校弓術教授。1893年西久保八幡神社祠宮。1901年華族会館弓術教授。1902年東京帝国大学弓術部師範。1905年学習院弓術師範。その他いくつもの学校の師範を勤める。この頃竹林派の種々の伝書に註解を加えて正面の弓構え・打起しについても解説し、1908年『日置流竹林派弓術書』を出版公表する。1917年東京帝国大学に家元継承についての覚書などを預託する。同年東京市電の事故により死亡する。

本多利時

本多利生

本多利永

主な本多流射手

明治弓道五人男

その他

  • 吉田能安 大射道教より派生して正法流創設
  • 香坂昌康 東京都知事、全日本弓道連盟副会長
  • 高木棐 全日本学生弓道連盟会長、全日本弓道連盟副会長

参考文献

  • 本多利永監修、財団法人生弓会編『本多流弓術書』、2003年、以下の文献を含めて編集してある
    • 本多利實『弓道保存教授及演説主意』、1889年
    • 本多利實講述『弓学講義』、1900年
    • 本多利實『弓道大意』、1902年
    • 本多利實『竹林派射知要法 註解』、1903年
    • 本多利實『竹林派射学中目録 註解』、1903年
    • 本多利實『竹林派射法輯要 註解』、1903年
    • 本多利實『竹林派射学本書五巻 註解』、1903年
    • 本多利實『竹林派射法中学集 註解』、1903年
    • 本多利實『竹林派射術目安の巻 註解』、1903年
    • 本多利實『射法正規』、1907年
    • 本多利實『射学要言』、1908年
    • 本多利實『弓学図解』、1908年
    • 本多利實、大日本弓術会編『弓術講義録』、1909年
    • 本多利實、大日本弓術会編『射学小目録伝書 詳解』、1912年

外部リンク