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2009年7月7日 (火) 14:08時点における版
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Ivan Hašek | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | チェコ | |||||
生年月日 | 1963年9月6日(60歳) | |||||
出身地 | ミェステツ・クラーロヴェー | |||||
身長 | 176cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF、DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1981-1990 1990-1994 1994-1995 1996 1996-1997 |
スパルタ・プラハ ストラスブール サンフレッチェ広島 ジェフ市原 スパルタ・プラハ |
221 (58) 84 (27) 55 (30) 28 (12) 18 (5) | ||||
代表歴2 | ||||||
1984-1993 1994 |
チェコスロバキア チェコ |
1 (0) 55 (5) | ||||
監督歴 | ||||||
1998 1998-1999 2000-2001 2001-2003 2004 2005 2005-2006 2006-2007 2007-2009 2009- |
スパルタ・プラハディレクター チェコアシスタントコーチ スパルタ・プラハ監督 ストラスブール監督 ヴィッセル神戸監督 ガボンコーチ アル・ワスル監督 サンテティエンヌ監督 アル・アハリ・ドバイ監督 チェコサッカー協会会長 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年1月11日現在。 2. 2006年11月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
イワン・ハシェック(Ivan Hašek、1963年9月6日 - )は、チェコ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元チェコスロバキア代表。
現・チェコサッカー協会会長。
人物
非常に勉強熱心な人物としても知られている。プラハ・カレル大学法学部卒業、弁護士の資格を取得している。 また数ヶ国に渡る言語を操ることが出来る。
息子であるイワン・ハシェック・ジュニアとパベル・ハシェックもサッカー選手。元NHL・アイスホッケー選手(ゴーリー)のドミニク・ハシェックは従兄弟にあたる。
チェコやフランスでの現役時代は主にセントラルミッドフィルダーとしてプレーした。一方代表ではFWからリベロまでGK以外ならどこでもこなせるユーティリティープレイヤーとして起用され、90年W杯では攻撃的な右サイドバックとして起用された。一方、日本では小柄ながらポストプレーがうまく空中戦にも長け、高い得点能力を持つフォワードとして知られている。
来歴
現役
1970年、チェコスロバキアのクラブチーム・ニンブルク(ZOM Nymburk)でユース年代を過ごし、1977年に名門スパルタ・プラハに移籍。 1981年-82年シーズンにリーグ戦デビューし長く主力として活躍、1987年・1988年と2年連続でチェコスロバキア最優秀選手賞(MVP)に輝く。
一方代表では、1983年U-20代表としてワールドユース・メキシコ大会に出場、1984年にはA代表に初招集。1990年、イタリアW杯では主将を務め5試合1得点、W杯ベスト8に貢献した。
同1990年、フランス・リーグ・ドゥのストラスブールへ移籍し主力として活躍、チームのリーグ・アン昇格に貢献、英雄として称えられた。ストラスブール退団後も地元では暫く「ハシェックのチームであるストラスブール」と呼ばれていたほどである。1994年にはチェコ代表としても代表招集されている。
同1994年、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ入団。高木琢也と2トップを組みパベル・チェルニー、盧廷潤ら攻撃陣と活躍[1][2]、同年のファーストステージ制覇に貢献、サポーターの間では歴史に名を刻んだ名選手として名前が挙がる。1996年からはジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)でもプレーした。
その後はスパルタへ戻り1997年現役引退。キャリアの中で、スパルタでは7度の優勝に貢献した。
引退後
引退後、スパルタでスポーツディレクターに、その後ヨゼフ・ホヴァネツ監督の下、代表のアシスタントコーチを歴任。その後は選手時代に在籍したスパルタやストラスブールで監督を歴任した。
2004年、三木谷浩史をオーナーに迎えたヴィッセル神戸監督に就任するものの、成績不振で1シーズン持たずして解任される[3]。
2005年、サッカーガボン代表のコーチとして活躍、同年にはチェコサッカー協会会長に立候補するものの敗れている。同年から1シーズンのみUAEリーグのアル・ワスル監督を務めた。
2006年4月末、古巣である広島から監督就任のオファーが届き、ハシェック本人もそれを受ける気であったが、彼の家族はまた離れて暮らすことを嫌がり了解が取れず、結局あきらめた[4]。
同2006年から1シーズンのみ、リーグアン・サンテティエンヌで監督を務めた後、2007年12月からUAEリーグのアル・アハリ監督に就任、08-09シーズンで優勝するも監督を退任。
2009年6月、再びチェコサッカー協会会長に立候補、今度は会長に選出された。
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
チェコスロバキア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1981-82 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 1 | |||||||
1982-83 | スパルタ・プラハ | 1部 | 24 | 3 | |||||||
1983-84 | スパルタ・プラハ | 1部 | 28 | 3 | |||||||
1984-85 | スパルタ・プラハ | 1部 | 20 | 3 | |||||||
1985-86 | スパルタ・プラハ | 1部 | 22 | 6 | |||||||
1986-87 | スパルタ・プラハ | 1部 | 30 | 10 | |||||||
1987-88 | スパルタ・プラハ | 1部 | 30 | 4 | |||||||
1988-89 | スパルタ・プラハ | 1部 | 26 | 13 | |||||||
1989-90 | スパルタ・プラハ | 1部 | 27 | 15 | |||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | ストラスブール | リーグ・ドゥ | 29 | 10 | |||||||
1991-92 | ストラスブール | リーグ・ドゥ | 28 | 10 | |||||||
1992-93 | ストラスブール | リーグ・アン | 12 | 3 | |||||||
1993-94 | ストラスブール | リーグ・アン | 15 | 4 | |||||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 広島 | - | J | 32 | 19 | 1 | 0 | 3 | 1 | 36 | 20 |
1995 | 広島 | - | J | 23 | 11 | - | 0 | 0 | 23 | 11 | |
1996 | 市原 | - | J | 28 | 12 | 14 | 6 | 1 | 0 | 43 | 18 |
チェコ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996-97 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 3 | |||||||
1997-98 | スパルタ・プラハ | 1部 | 4 | 2 | |||||||
通算 | チェコスロバキア | 1部 | 225 | 58 | |||||||
フランス | リーグ・アン | 27 | 7 | ||||||||
フランス | リーグ・ドゥ | 47 | 20 | ||||||||
日本 | J | 83 | 42 | 15 | 6 | 4 | 1 | 102 | 49 | ||
チェコ | 1部 | 18 | 5 | ||||||||
総通算 | 400 | 132 |
脚注
関連項目
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