「魯迅」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Xqbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる追加: hi:लु शिन्, mt:Lu Xun; 細部の編集
Beetstra (会話 | 投稿記録)
Classictext (会話) による ID:25176694 の版を取り消しremove spammed link, see m:User:COIBot/XWiki/meisakulive.com
147行目: 147行目:
*[http://www.geocities.jp/torikai007/bio/rojin.html 魯迅の日本留学と戦争]
*[http://www.geocities.jp/torikai007/bio/rojin.html 魯迅の日本留学と戦争]
*[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/international/Topic/Lu_Xun/top.html 魯迅先生東北大学留学100周年記念事業]
*[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/international/Topic/Lu_Xun/top.html 魯迅先生東北大学留学100周年記念事業]
*[http://www.meisakulive.com/books/index/author:%E9%AD%AF%E8%BF%85 魯迅:作家別作品リスト]([[名作ライブ]])


== 資料 ==
== 資料 ==

2009年6月11日 (木) 10:48時点における版

魯迅
1936年
誕生 周樹人
1881年9月25日
浙江省紹興市
死没 (1936-10-19) 1936年10月19日(55歳没)
職業 小説家
国籍 中華民国の旗 中華民国
活動期間 1918年 - 1936年
主題 小説
代表作阿Q正伝
狂人日記
親族 周作人(弟)
テンプレートを表示
魯迅
各種表記
繁体字 魯迅
簡体字 鲁迅
拼音 Lǔ Xùn
和名表記: ろ じん
発音転記: ルー シュン
テンプレートを表示

魯迅(ろじん)は中国小説家翻訳家思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、豫才。ペンネームのは母親の姓だという。浙江省紹興市出身。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。

特に『狂人日記』は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。

人物・経歴

松本亀次郎の下で日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。

当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され[1]、周は無試験で入学している。このため学力不足の留学生は途中で挫折している。特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技[2]であった。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、授業についていけず[4]町で遊興[5]に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。

1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。 そこに友人の全心異(チュェン・インシー)に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」

これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言っているのである。 それに対する全心異の答は、

「そうして幾人は已に起き上った。君が著手(ちゃくしゅ)しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」

つまり、起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか、という反論であった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた、と『吶喊』自序で述べている。

帰国後は、杭州紹興などを経て、1912年南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。

また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。

魯迅と仙台

紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館

仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。

魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[6]。中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民中華人民共和国主席も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。

2004年、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[7][8]。ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。

魯迅の言語観

魯迅の作品に見られる特徴のひとつとして、欧米語とりわけ英語の文法をなぞった、本来の中国語(白話)には無い語法がある。彼は中国語が文法的な精緻さにかけているという思想に取り付かれており、欧米語は文法が精緻なので思考も理性的なのだと考えていた[9]。そのため彼は本来中国語には無かった文法事項を、半ば人工的に欧米語をなぞって作り上げることになる。例を挙げると、魯迅は本来の白話では区別していなかった形容詞・副詞接辞deを、形容詞接辞の的と副詞接辞の地と書き分け、また三人称単数の代名詞taに、英語を模倣した男性形(他)、女性形()、中性形(它)の区別を取り入れ、書き分けた。このような魯迅の欧米語文法の優越性に対する信仰への弁護として、当時の欧米において中国語が最も原始的な文法体系の言語とされ、はなはだしくは文法の無い言語だとさえいわれたという時代的背景をあげるものもいる。

無論現代の言語学的立場からすれば、魯迅の思想は疑似科学的なものである。たとえば英語では区別しない形容詞的なfromと副詞的なfromを、日本語では"からの"と"から"というように区別する。朝鮮語でも同様に両者を、無生物の場合はbute'yiとbute、生物の場合は'eise'yiと'eiseというように区別する[10]。しかし日本語や朝鮮語の話者が英語話者に比べて思考が理性的だとする科学的な根拠は何もない。又アラビア語には欧米語の殆どには無い双数形があるが、アラビア語の話者が欧米語の話者より思考が理性的で精緻だとする科学的根拠もない。

更にいえば、欧米語に比べて中国語(白話・北方官話)の文法が精緻ではないという魯迅の考え自体も一面的である。欧米語の一人称複数は、英語のweがそうであるように1種類しかないが、対して白話・北方官話では除外的な我們(women:話し相手を含まない私たち)と包括的な咱們(zanmen:話し相手を含む私たち)という2種類の一人称複数形を用いており、この点では北方官話は欧米語よりも精緻な文法体系を持っている。

中国の近代化改革を望んだ文学者である彼がその過程で不可避に欧米への崇拝・事大意識をもち、それを自身の言語観や文学作品に投影したことは中国の近代化のあり方をめぐる一つの研究対象とされている。

また彼は上にも示したとおり、文言文を廃止して、民衆語である白話で書くべきだとしていたが、一方で上のような民衆語からかけ離れ、漢字の上でしか分からない人工的な語法を導入したことは矛盾しているのではないかという声もある。実際に1920年代以降、より民衆語(白話)に近づけた文章を規範とすべきとする大衆化運動の擁護者により、魯迅は中国語の自然な形態(何を以て「自然」と呼ぶかは議論があるが)を犠牲にして、欧米語に追随した事大主義者として批判されるようになる。甚だしくは彼や彼に代表される欧化文体を、民衆語からかけ離れた新文言とする声さえあった[11]。しかし最終的に欧化語法の少なからぬ部分が現代中国の普通話にも取り入れられることになり、魯迅は近代中国語の規範を作り上げた作家の一人とみなされるようになった。

魯迅の文明観

魯迅の欧米崇拝と、(彼の頭の中にあった)中国の伝統へのさげすみは、言語にとどまらず、文明一般にわたっている。

魯迅には、孫文や蒋介石、毛沢東らの革命家達や、梁漱溟のような思想家達がそうであったように、過去の中国で展開された思想、とりわけ中心となった儒教に対し、封建遺制だけでなく、優れた、普遍的な理想も含まれていることを認め、それを新生中国に生かしていこうという姿勢はなかった。彼は中国の過去の思想と、それによって支えられた社会すべてを『封建的』『非科学的』という名の下に、何の価値もないものとして否定した。彼の文学作品に描かれる伝統中国は、腐敗し、何の価値もない因習に縛られたものである。対して彼は、『西洋近代』を崇拝し、西洋近代を、中国の目指すべき理想の世界を現すものとして思い描いていた。

作品リスト

小説集

その他

脚注

  1. ^ 日本の中学卒以上の学力があるという条件は示されていた。
  2. ^ 日本人学生でさえ入学者100名に対し卒業試験まで至る学生は50名に過ぎなかった。
  3. ^ その額は金四百円のぼる。この他学費は全額免除されていた。当時の400円は中学校の教員の収入を優に超えるものであった。
  4. ^ 解剖学の講義では恩師藤野厳九郎によりノートの添削を受けていた。
  5. ^ 映画館に頻繁に出入りしている。上記のニュース映画もその際に観たものであると考えられる。
  6. ^ 魯迅特集(東北大学・まなびの杜)
  7. ^ 日中今昔ものがたり「人的財産」賞に(asahi.com)
  8. ^ 東北大学魯迅記念奨励賞(東北大学)
  9. ^ 魯迅における欧化の文法-的、地の使い分けを手がかりに-(PDF文書) 胡蓉著
  10. ^ 日本語と朝鮮語では奪格後置詞の後ろに属格後置詞を配置することでこのような区分が可能となる。英語でもしこれを直訳すると、奪格前置詞の前に属格前置詞をつけたof fromという形式となる
  11. ^ 「漢字圏の近代」pp102-pp103

関連項目

外部リンク

資料

  • 坂井建雄2008「魯迅が仙台で受けた解剖学史の講義について(On the lecture on the history of anatomy which Lu Xun heard in Sendai)」『日本医史学雑誌 』54(4) (1532) pp.359〜372 (魯迅の仙台医学専門校時代についての研究)