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'''ヨーロッパ世界'''(ヨーロッパせかい)とは、[[ヨーロッパ]]において、[[ゲルマン民族の大移動]]後、[[ゲルマン民族]]の習俗と[[古代ローマ]]の[[文明]]、さらに[[キリスト教]]信仰との融合([[習合]])、及び[[東ローマ帝国]]の[[ビザンチン文化]]、キリスト教信仰と[[スラブ人]]の習俗との融合の結果できた |
'''ヨーロッパ世界'''(ヨーロッパせかい)とは、[[ヨーロッパ]]において、[[ゲルマン民族の大移動|ゲルマン人の大移動]]後、[[ゲルマン人|ゲルマン系諸民族]]の習俗と[[古代ローマ]]の[[文明]]、さらに[[キリスト教]]信仰との融合([[習合]])、及び[[東ローマ帝国]]の[[ビザンチン文化]]、キリスト教信仰と[[スラブ人]]の習俗との融合の結果できたと説明される[[世界]]についての歴史学用語である。[[古代ギリシア]]、[[古代ローマ]]による[[地中海世界]]の後の西方世界を説明する際に用いられる。 |
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[[古代ギリシア]]、[[古代ローマ]]の[[地中海世界]]の後に登場した世界である。 |
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==ヨーロッパ世界の形成== |
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ヨーロッパ世界の形成は[[ローマ帝国]]の東西分裂に伴い、旧[[西ローマ帝国]]の中では[[ローマ教会]]が、[[東ローマ帝国]]の中では[[正教会]]が大きな影響力を有しながら展開していった。地中海世界との比較では、地中海世界が領域としていた[[北アフリカ]]地域が[[イスラム世界]]に組み込まれ、喪失する一方、地中海世界の外であった[[東ヨーロッパ]]、[[北ヨーロッパ]]をその領域に組み込んでいることである。この領域は現在「[[ヨーロッパ]]」と呼んでいる地域とほぼ一致する。 |
ヨーロッパ世界の形成は[[ローマ帝国]]の東西分裂に伴い、旧[[西ローマ帝国]]の中では[[ローマ教会]]が、[[東ローマ帝国]]の中では[[正教会]]が大きな影響力を有しながら展開していった。地中海世界との比較では、地中海世界が領域としていた[[北アフリカ]]地域が[[イスラム世界]]に組み込まれ、喪失する一方、地中海世界の外であった[[東ヨーロッパ]]、[[北ヨーロッパ]]をその領域に組み込んでいることである。この領域は現在「[[ヨーロッパ]]」と呼んでいる地域とほぼ一致する。 |
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[[人種]]概念同様、純粋な学術的分類というよりはキリスト教的価値観を大いに含んだ概念と言える。 |
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===西ヨーロッパでのキリスト教世界の形成=== |
===西ヨーロッパでのキリスト教世界の形成=== |
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[[Image:Notre-Dame-night.jpg|thumb|275px|right|[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂]]。西ヨーロッパによく見られる[[ゴシック建築]]である。]] |
[[Image:Notre-Dame-night.jpg|thumb|275px|right|[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂]]。西ヨーロッパによく見られる[[ゴシック建築]]である。]] |
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[[ゲルマン民族の大移動]]によって[[西ローマ帝国]]が滅亡すると、[[西ヨーロッパ]]をゲルマン民族が席捲した。その際、[[ラテン人]] |
[[ゲルマン民族の大移動|ゲルマン人の大移動]]によって[[西ローマ帝国]]が滅亡すると、[[西ヨーロッパ]]をゲルマン系諸民族が席捲した。その際、[[ローマ人]]などの[[ラテン系]]民族や[[ガリア人]]([[ブリトン人]]も含む)らケルト系諸民族からなる原住民との文化的融合が行われ、ゲルマン人は[[キリスト教]]を受容した。やがて各地にゲルマン人を主体とする王国([[征服王朝]])が形成され、それらは[[フランク王国]]に収斂されて行った。欧州の様々な民族から形成された[[フランク人|フランク民族]]の王[[カール大帝]]はキリスト教とローマ世界の庇護者として[[ローマ教皇]]により[[西ローマ帝国|西ローマ皇帝]]に戴冠され、[[キリスト教]]([[カトリック教会|カトリック]])を重要な共通概念とする世界が構築された。特にキリスト信仰は文明のバックボーンとなり[[マジャル人]]など東方系の民族もカトリックを受容した。これに続き、[[ヴァイキング]]後に成立した[[北欧諸国]]のカトリック化によってほぼ現在の西ヨーロッパにおけるヨーロッパ世界が完成したと言える。 |
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===東ヨーロッパでのキリスト教世界の形成=== |
===東ヨーロッパでのキリスト教世界の形成=== |
2008年9月6日 (土) 10:29時点における版
ヨーロッパ世界(ヨーロッパせかい)とは、ヨーロッパにおいて、ゲルマン人の大移動後、ゲルマン系諸民族の習俗と古代ローマの文明、さらにキリスト教信仰との融合(習合)、及び東ローマ帝国のビザンチン文化、キリスト教信仰とスラブ人の習俗との融合の結果できたと説明される世界についての歴史学用語である。古代ギリシア、古代ローマによる地中海世界の後の西方世界を説明する際に用いられる。
ヨーロッパ世界の形成
ヨーロッパ世界の形成はローマ帝国の東西分裂に伴い、旧西ローマ帝国の中ではローマ教会が、東ローマ帝国の中では正教会が大きな影響力を有しながら展開していった。地中海世界との比較では、地中海世界が領域としていた北アフリカ地域がイスラム世界に組み込まれ、喪失する一方、地中海世界の外であった東ヨーロッパ、北ヨーロッパをその領域に組み込んでいることである。この領域は現在「ヨーロッパ」と呼んでいる地域とほぼ一致する。
人種概念同様、純粋な学術的分類というよりはキリスト教的価値観を大いに含んだ概念と言える。
西ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
ゲルマン人の大移動によって西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパをゲルマン系諸民族が席捲した。その際、ローマ人などのラテン系民族やガリア人(ブリトン人も含む)らケルト系諸民族からなる原住民との文化的融合が行われ、ゲルマン人はキリスト教を受容した。やがて各地にゲルマン人を主体とする王国(征服王朝)が形成され、それらはフランク王国に収斂されて行った。欧州の様々な民族から形成されたフランク民族の王カール大帝はキリスト教とローマ世界の庇護者としてローマ教皇により西ローマ皇帝に戴冠され、キリスト教(カトリック)を重要な共通概念とする世界が構築された。特にキリスト信仰は文明のバックボーンとなりマジャル人など東方系の民族もカトリックを受容した。これに続き、ヴァイキング後に成立した北欧諸国のカトリック化によってほぼ現在の西ヨーロッパにおけるヨーロッパ世界が完成したと言える。
東ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
東ローマ帝国も参照
東ローマ帝国はローマ帝国分裂後も1000年近く命脈を保ったたため、周囲の東ヨーロッパ、バルカン半島地域のキリスト教化によるヨーロッパ世界の展開は東ローマ帝国と正教会と移住してきたスラヴ人との闘争と融和のよって進行されていった。
東ローマ帝国は西ローマ帝国の滅亡後、「ローマの後継者」として「地中海帝国」の復活を目指した。ユスティニアヌス帝のころ、ローマ帝国の領域をほぼ征服することに成功、地中海帝国の再興にこぎつけた。しかし、神聖ローマ帝国の成立やヴァイキングの侵攻、スラヴ人の流入、イスラム世界の勃興など外部的要因で地中海帝国の維持には失敗し、ヘラクレイオス王朝の頃にはギリシア人の帝国として東ローマ帝国はバルカン半島、東ヨーロッパ地域の征服およびキリスト教の布教に専念するようになった。
一方、バルカン、東ヨーロッパ地域に移住してきたスラヴ人たちは、独自の王国を建設。北方十字軍等の西ヨーロッパ世界の干渉や東ローマ帝国と激しく戦う一方で、正教会およびビザンツ文化を受容するようになっていった。
ヨーロッパ世界の展開
ヨーロッパ世界の形成はキリスト教を支柱とする完成したが、同時に内外の要因によって多様性を深めていった。また西ヨーロッパでは教皇と皇帝の対立、さらにシスマなど内部的要因で展開した。東ヨーロッパではイスラム世界との接触および、モンゴル帝国の侵攻という外部的要因にさらされ展開した。
イスラム世界の影響は十字軍という形で東西ヨーロッパに影響を与えただけでなく、オスマン帝国による征服と圧力という形で長期的な影響を与え続けることになった。
東西教会の分裂
十字軍
十字軍を参照
モンゴル帝国とイスラム帝国の衝撃
モンゴル帝国を参照
二つの楕円
ヨーロッパ世界は二つの楕円式構造を有している。
カトリックと正教会
宗教において、カトリック教会と正教会という二つの中心を有しているのがこの世界の特徴である。この直接の発端は東西教会の分裂に始まるが、遠くはローマ帝国の東西分裂に由来する。
教皇と皇帝
カトリック教会を精神的支柱として西ヨーロッパ世界では、神聖ローマ帝国の成立以後、精神世界の頂点である教皇と世俗の頂点である皇帝との対立が生じた。これは叙任権闘争によって顕在化することになる。
ヨーロッパ世界の変質
ローマ教会と神聖ローマ皇帝が主導する西ヨーロッパのカトリック世界と東ローマ帝国とスラブ人王国が主導する東ヨーロッパの東方正教世界からなる「ヨーロッパ世界」は以下のような外部的要因と内部的要因によって変質していき、新たな局面を迎える。特に大航海時代以降の展開は世界の一体化過程(近世における世界の一体化)において重要な役割をなし全世界に大きな影響を及ぼすこととなった。