滋野井季吉
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正14年9月(1586年) |
死没 | 明暦元年12月5日(1656年1月1日) |
改名 | 冬隆→季吉 |
戒名 | 智光院徹山大通 |
官位 | 正二位・権大納言 |
主君 | 後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇→後西天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 |
父:五辻之仲、母:葉室頼房女 義父:滋野井公古 |
兄弟 | 季吉、綾小路高有、五辻奉仲、五辻斉仲 |
子 | 葉室頼隆、冬晴、教広、五辻俊仲、真清、実定、東坊城知長室、遠山秀友継室、松平信濃守室 |
滋野井 季吉(しげのい すえよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の公卿。中絶していた滋野井家を再興した。
生涯
[編集]天正14年9月(1586年)、五辻之仲(当時は元仲)の長男として誕生する。初名は冬隆[1](ふゆたか)。
慶長5年(1600年)正月、15歳で叙爵され、同年4月に元服し昇殿を許される。元和2年4月26日(1616年6月10日)、名を季吉(すえよし)と改める。寛永4年(1627年)、参議となり、公卿に列した。
寛永9年(1632年)には元日節会の外弁を、寛永11年(1634年)は白馬節会の外弁を務める。寛永12年(1635年)には踏歌節会の外弁を務め、同年2月3日の春日祭に上卿として参向する。寛永13年(1636年)は元日節会の外弁、寛永14年(1637年)[2]と寛永16年(1639年)は踏歌節会の外弁を務めた。寛永16年12月29日(1640年2月20日)、寛永12年1月5日に従二位叙位の位記を賜った。寛永17年(1640年)は白馬節会の外弁を務め、11月7日の春日祭に上卿として参向、同18年(1641年)は元日節会の外弁を務めた。
寛永20年(1643年)、紹仁親王が即位する(後光明天皇)と、即位外弁を務めた。寛永21年(1644年)、元日節会の外弁を務める。同年2月16日、除服する[3]。
明暦元年12月5日(1656年1月1日)、70歳で薨去した。法名は智光院徹山大通[4]。
官歴
[編集]- 慶長5年1月11日(1600年2月25日)、従五位下
- 慶長5年7月6日(1600年8月14日)、侍従に任官
- 慶長6年3月19日(1601年4月21日)、越中権介を兼官
- 慶長9年8月1日(1604年8月25日)、従五位上
- 慶長12年1月17日(1607年2月13日)、右近衛少将に任官
- 慶長13年1月6日(1608年2月21日)、正五位下
- 慶長17年1月5日(1612年2月6日)、従四位下
- 慶長18年1月6日(1613年2月25日)、従四位上
- 慶長18年11月1日(1613年12月12日)、右近衛中将に転任
- 元和8年1月5日(1622年2月15日)、正四位下
- 寛永4年2月2日(1627年3月19日)、参議、右近衛中将は如元[5]
- 寛永4年4月22日(1627年6月5日)、従三位
- 寛永8年1月6日(1631年2月6日)、正三位
- 寛永9年1月11日(1632年3月1日)、権中納言
- 寛永12年1月5日(1635年2月22日)、従二位
- 寛永19年1月5日(1642年2月4日)、正二位
- 寛永20年1月11日(1643年3月1日)、権中納言を辞任
- 寛永20年10月8日(1643年11月19日)、権大納言
- 正保4年12月28日(1648年1月22日)、権大納言を辞任
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『系図纂要』では「之隆」。(『系図纂要』第五冊、p.503)
- ^ 公卿補任九条本では次項の大炊御門経敦に係っているという。(『公卿補任』第三篇、p.584「〔く係于經敦〕」)
- ^ 寛永21年1月25日に実弟の綾小路高有が薨去したことによる軽服だと思われる。
- ^ 『系図纂要』より。『公卿補任』では「法名徹山」とある。(『公卿補任』第三篇、p.640)
- ^ 『公卿補任』後水尾天皇寛永六年条、明正天皇寛永七年条、寛永八年条では「左中将」とされるが、こちらが誤記か。