波多野二郎
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波多野二郎 はたの じろう | |
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生年月日 | 1885年2月15日 |
没年月日 | 1962年1月15日(76歳没) |
出身校 | 海軍兵学校 |
前職 | 海軍大佐 |
所属政党 | 研究会 |
配偶者 | 波多野勝子 |
親族 |
父・波多野敬直(宮内大臣) 叔父・野口能毅(佐賀市長) |
在任期間 | 1939年7月10日 - 1946年4月13日 |
波多野 二郎(はたの じろう、1885年〈明治18年〉2月15日[1] - 1962年〈昭和37年〉1月15日[1][2])は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍大佐。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]本籍は東京府[2]。裁判官・波多野敬直の二男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1922年(大正11年)9月20日に子爵を襲爵した[1][4]。
1906年(明治39年)11月19日、海軍兵学校(34期[5])を卒業し[6]、1907年(明治40年)12月20日、海軍少尉に任官した[6]。以後、「駒橋」艦長、「高崎」特務艦長、「利根」艦長、「日進」艦長、横須賀鎮守府付などを歴任[2][3]。海軍大佐に進み、1930年(昭和5年)予備役に編入された[2][3]。
1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[2][7][8]、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月13日に辞職した[2][9]。その後、公職追放となった[10]。
親族
[編集]- 母 波多野鹿子(しかこ、中島清武二女)[1]
- 継母 波多野ため(為子、矢野冝温二女)[1]
- 妻 波多野勝子(外交官島村久長女)[1][11][12]
- 婿養子 波多野隆国(西郷寅太郎五男)[1]
- 長女 波多野静子(隆国の妻)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』下巻、362頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』51頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第14版 下、ハ7頁。
- ^ 『官報』第3044号、大正11年9月22日。
- ^ 『日本海軍士官総覧』162頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』122頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、47頁。
- ^ 『官報』第3758号、昭和14年7月17日。
- ^ 『官報』第5795号、昭和21年5月13日。
- ^ 公職追放の該当事項は「正規海軍将校」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、101頁。NDLJP:1276156。)
- ^ 島村久 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 島村久(読み)しまむら ひさしコトバンク
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』下巻、社団法人霞会館、1996年。
- 海軍義済会編、戸高一成監修『日本海軍士官総覧』柏書房、2003年( 「海軍義済会員名簿(昭和十七年七月一日調)」(海軍義済会、昭和18年刊)の復刻版)。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
日本の爵位 | ||
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先代 波多野敬直 |
子爵 波多野(敬直)家第2代 1922年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |