西郷寅太郎
| 西郷 寅太郎 さいごう とらたろう | |
|---|---|
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| 生年月日 |
1866年8月21日 (慶応2年7月12日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1919年1月1日(52歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 陸軍戸山学校 |
| 称号 |
従三位 勲三等旭日中綬章 功五級金鵄勲章 侯爵 |
| 配偶者 | 西郷ノブ |
| 子女 |
次男・西郷隆輝 三男・西郷吉之助 |
| 親族 |
父・西郷隆盛(参議) 義父・園田実徳(衆議院議員) 叔父・西郷従道(内務大臣) 兄・西郷菊次郎(京都市長) 従弟・西郷従徳(貴族院議員) 従弟・西郷豊彦(貴族院議員) 従弟・上村従義(貴族院議員) |
| 在任期間 | 1902年6月3日 - 1919年1月4日[1] |
西郷 寅太郎(さいごう とらたろう、1866年8月21日〈慶応2年7月12日〉- 1919年〈大正8年〉1月1日)は、日本の華族、陸軍軍人。習志野俘虜収容所長・貴族院議員等を務める。階級・栄典は陸軍歩兵大佐従三位勲三等功五級侯爵。
陸軍大将西郷隆盛の嫡男で、母は糸子。妻は園田実徳の子・信子。西郷従道は叔父にあたる。庶兄の菊次郎は宜蘭支庁郡守、京都市長などを務める。
経歴・人物
[編集]薩摩国鹿児島城下上之園通町で出生するが、1877年(明治10年)の西南戦争で父隆盛が戦死する。隆盛は薩軍の首魁(しゅかい)として官位を褫奪され、一族は鹿児島で密かに暮らしていた。寅太郎は城山の麓にある三州義塾で学ぶ[2]。
1884年(明治17年)に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。帰国後、陸軍戸山学校射撃科を経て1892年(明治25年)には陸軍少尉に任じられる。1902年(明治35年)6月3日、父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員(侯爵議員)に就任する。隆盛は大日本帝国憲法発布の大赦で赦され、正三位が贈られた。
第一次世界大戦中の1914年(大正3年)11月11日、東京俘虜収容所長に就任。1915年(大正4年)9月7日、習志野俘虜収容所長に移る。1919年(大正8年)1月1日、全世界で大流行していたスペイン風邪による肺炎が元で在職中に薨去。同年1月5日、特旨により従三位に叙せられる。
親族
[編集]- 父:西郷隆盛
- 母:糸子 - 薩摩藩家老・岩山八郎太の娘。弟に岩山敬義
- 異母兄:西郷菊次郎
- 異母姉:西郷菊草 - 大山誠之助(大山巌の兄)の妻
- 妻:ノブ(信子)- 園田実徳の娘。実徳の弟・武彦七の曾孫に武豊・武幸四郎がいる。
- 長男:西郷隆幸 - 夭折。
- 次男:西郷隆輝 - 家督を継ぐ
- 三男:西郷吉之助 - 隆輝の家督を継ぐ。吉之助は貴族院議員・参議院議員となり法務大臣を務める。
- 四男:西郷隆永
- 五男:波多野隆国 - 波多野二郎子爵の養子となる[3]。
- 六男:西郷隆明 - スターライト工業社長
- 七男:浜根隆正 - 尾道造船社長・浜根岸太郎(二代目)の養子となる。
- 長女:愛子
- 次女:敦子
- 三女:勝子
- 四女:光子 - 駒澤大学教授・獨協大学名誉教授・幣原道太郎(幣原喜重郎の長男)の妻[4]
- 孫:西郷吉太郎、西郷隆夫など
- 曾孫:西郷隆太郎など
栄典
[編集]- 位階
- 1894年(明治27年)5月30日 - 正八位[5]
- 1898年(明治31年)8月18日 - 正七位[6]
- 1902年(明治35年)6月20日 - 従五位[7]
- 1905年(明治38年)6月30日 - 正五位[8]
- 1909年(明治42年)7月10日 - 従四位[9]
- 1914年(大正3年)7月20日 - 正四位[10]
- 1919年(大正8年)1月2日 - 従三位(没後追叙)[11]
- 爵位
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1895年(明治28年)12月20日 | 勲六等瑞宝章[13] | ||
| 1895年(明治28年)12月20日 | 功五級金鵄勲章[13] | ||
| 1903年(明治36年)5月16日 | 勲五等瑞宝章[14] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲四等旭日小綬章[15] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[15] | ||
| 1912年(大正元年)8月1日 | 韓国併合記念章[16] | ||
| 1913年(大正2年)11月28日 | 勲三等瑞宝章[17] | ||
| 1915年(大正4年)11月7日 | 旭日中綬章[18] | ||
| 1915年(大正4年)11月7日 | 大正三四年従軍記章[18] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章[19] |
- 外国勲章佩用允許
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1900年(明治33年)10月1日 | 赤鷲第四等勲章[20] | |||
| 1906年(明治39年)8月21日 | レペー勲章シユヴアリエードラブルミエールクラス[21] | |||
| 1907年(明治40年)7月1日 | レジオンドヌール勲章シュヴァリエー[22] | |||
| 1907年(明治40年)12月7日 | フランソアジョゼフ勲章コムマンドール[23] | |||
| 1908年(明治41年)4月7日 | 赤鷲剣附第三等勲章[24] | |||
| 1908年(明治41年)5月26日 | サンモーリスエラザル第四等勲章[25] |
備考
[編集]西郷寅太郎の死亡日時には異説がある。墓碑(青山霊園)には、「大正8年1月4日没」と刻まれており、「東京朝日新聞」大正8年1月4日「習志野俘虜収容所長西郷大佐逝去」は3日に麻布市兵衛町の自邸で没したと伝えている。 また、陸軍省『欧受大日記』大正8年1月「西郷寅太郎薨去の件」(アジア歴史資料センター レファレンスコードC03025001100)は、4日午前11時死去としている。しかし、この中に綴られている「所長死去之件通牒」は1月2日に習志野俘虜収容所から陸軍省に送付された文書であるが、そこには「昨1日午前11時本邸東京市麻布区市兵衛町ニ於テ死去」と書かれており、しかも「1日」を青鉛筆で消し「4日」と書き替えた形跡が残されている。 以上の資料から、西郷寅太郎の死亡は1月1日であり、それが何らかの理由で延ばされて3日として新聞発表され、さらに4日に延ばされた経緯がうかがえる。
脚注
[編集]- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ 『西郷隆盛七つの謎』新人物往来社、1989年12月、157頁。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、622頁。
- ^ 西郷侯爵家(西郷隆盛家)みんなの系図
- ^ 『官報』第3274号「叙任及辞令」1894年5月31日。
- ^ 『官報』第4542号「叙任及辞令」1898年8月19日。
- ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。※正七位から昇叙。
- ^ 『官報』第6600号「叙任及辞令」1905年7月1日。
- ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
- ^ 『官報』第592号「叙任及辞令」1914年7月21日。
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1919年1月6日。
- ^ 『官報』第5673号「授爵・叙任及辞令」1902年6月4日。
- ^ a b 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月8日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。
- ^ a b 『官報』第1222号・付録「叙任及辞令」1916年8月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第5207号「叙任及辞令」1900年11月8日。
- ^ 『官報』第6948号「叙任及辞令」1906年8月25日。
- ^ 『官報』第7210号「叙任及辞令」1907年7月12日。
- ^ 『官報』第7339号「叙任及辞令」1907年12月13日。
- ^ 『官報』第7437号「叙任及辞令」1908年4月15日。
- ^ 『官報』第7481号「叙任及辞令」1908年6月5日。
- ^ 「西郷隆盛の息子らの「力強い」集合写真発見…西南戦争後の「復権の先駆けを象徴」」『読売新聞オンライン』2023年5月12日。オリジナルの2023年8月11日時点におけるアーカイブ。2023年8月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。
関連項目
[編集]| 日本の爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代 叙爵 |
侯爵 西郷(隆盛)家初代 1902年 - 1919年 |
次代 西郷隆輝 |