桑田兼吉

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桑田 兼吉(くわた かねよし、昭和14年(1939年)9月23日[1] - 平成19年(2007年)4月5日)は、日本ヤクザ指定暴力団・五代目山口組若頭補佐。五代目山口組三代目山健組組長、二代目健竜会会長。

来歴[編集]

1939年9月23日、誕生。

1982年9月、三代目山口組(組長は田岡一雄山健組(組長は山本健一)若頭・渡辺芳則(後の五代目山口組組長)は、山健組若頭補佐・桑田を、二代目健竜会会長に据えた。

1989年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中組竹中武組長は、態度を保留した。四代目山口組若頭渡辺芳則(山健組組長)と四代目山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。

同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。

同年、渡辺芳則は、山健組を、同組若頭・桑田に譲った。

1990年1月4日午後4時すぎ、札幌事件が勃発した。

同年5月14日、桑田と共政会沖本勲理事長(後の四代目共政会会長)との兄弟が交わされた[2]

1997年8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。

同年12月26日、東京都港区六本木の路上で、車で走行中の桑田一行が警視庁検問を受けた。桑田兼吉の後続車両の配下組員の車から拳銃が出てきたことから、配下組員は銃刀法違反の現行犯逮捕されると共に、桑田も拳銃の共同所持の銃刀法違反で現行犯逮捕された。

1998年1月、共謀共同正犯として銃刀法違反で起訴された。検察懲役10年を求刑した。

2000年3月6日、東京地方裁判所で懲役7年の判決を受けた。桑田は即日控訴した。

2001年10月16日、東京高等裁判所共謀の成立を認定し、控訴を棄却した。桑田は最高裁判所上告した。

2003年5月1日、最高裁判所第1小法廷横尾和子裁判長)は上告棄却の決定をし、懲役7年の実刑が確定した(スワット事件)。未決勾留日数を差し引くと、約5年3か月の服役となった。このとき、桑田は、長期勾留により持病の悪化などで、拘置の執行停止を受けて、入院中だった。

同年7月、事故に遭って、重傷を負った。このため収監が見合わされた。

2004年3月23日、東京拘置所に収監された[3]

2005年跡目を若頭の井上邦雄(四代目健竜会会長、桑田の養子)に譲り、引退した。

2007年3月15日、病気により刑の執行が停止されて、釈放され、病院に入院した[4]

同年4月5日、大阪市内の病院で死去した[4]

同年4月7日と同年4月8日、神戸市灘区葬儀場で、告別式および山口組組葬に準じる葬儀が営まれた[4]

脚注[編集]

  1. ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4.の「五代目山口組本家組織図」
  2. ^ 出典は、実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5.のP.109
  3. ^ 出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9.のP.199
  4. ^ a b c 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6.のP.31

参考文献[編集]

先代
渡辺芳則
健竜会会長
2代目: 1982-1989
次代
山本一廣
先代
渡辺芳則
山健組組長
3代目: 1989-2005
次代
井上邦雄