コンテンツにスキップ

木本芳雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木本 芳雄 / 奇本 芳雄
基本情報
出身地 山形県
生年月日 1946年(77 - 78歳)
選手情報
ポジション 一塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

木本 芳雄 / 奇本 芳雄(きもと よしお、1946年 ‐ )は、山形県出身の高校野球指導者[1]、高校野球解説者[2]社会科教諭[3]。旧姓・奇本。

来歴

[編集]

神奈川県武相高等学校野球部では5番・一塁手、副主将として、1964年第46回全国高等学校野球選手権大会に出場している。駒澤大学進学後は、足の怪我[注 1]を理由に指導者への転身を勧められ、母校・武相高のコーチを頼まれる。熱心に有望な中学生のスカウトにあたっていた。更に大学3年の時に武相高の監督が辞めた際には、奇本(当時)が実質的な監督状態となっていた。武相高からは大学の学費まで出してもらえており、教員になれるよう支援され、あとは正式な打診を待つばかりであった。しかし、学内の事情により、別の指導者が正式な監督に就任、はしごを外された状態となってしまう[4]

1968年に創部3年目の桐蔭学園高等学校野球部監督に就任した。1971年大塚喜代美土屋恵三郎のバッテリーを擁し、第53回全国高等学校野球選手権大会に同校を甲子園初出場させるとともに初優勝を果たした。当時大卒3年目、24歳という若さでの快挙だった。ただ選手権大会優勝校監督が就任することが慣例の日米親善高校野球(同年はハワイ州で開催)は、当時の出入国管理法により在日コリアンの奇本(当時)は日本国外に出国できず、準優勝校の福島県立磐城高等学校須永徳中が就いた[5]。以後、桐蔭学園では甲子園出場はならず、1982年に教え子の土屋に監督の座を譲った。

1984年8月に藤嶺学園藤沢高等学校の野球部監督に就任。翌年の第67回全国高等学校野球選手権大会に同校を初出場させた。のち、母校の武相高校野球部監督も務めている[6]

2006年育成功労賞を受賞[2][3]

2013年7月27日(土曜日)15:00 - 15:54にTBSテレビスパニチ!!」で放送された『同窓会』(出川哲朗パンチ佐藤堤下敦の出演で武相高校を特集)に、堤下の恩師としてサプライズ出演。

指導した選手

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 高校2年夏、横浜高等学校平岡一郎シュートが右の太ももに当たったことによるもの。皮の中で筋肉が飛び出ている内出血を起こし、2か月間もギプスで固定されて過ごしていた[3]

出典

[編集]
  1. ^ 3校で甲子園出場の偉業 桐蔭学園 藤嶺藤沢 武相 木本芳雄
  2. ^ a b 実況・解説者紹介”. かながわCATV情熱プロジェクト. 2023年6月25日閲覧。
  3. ^ a b c 高校野球ニュース「桐蔭・藤嶺藤沢・武相で元監督 木本さんに育成功労賞」」『asahi.com』2006年6月14日。2023年6月25日閲覧。
  4. ^ 「3校で甲子園」の偉業 桐蔭学園・藤嶺藤沢・武相 木本芳雄」『カナロコ by 神奈川新聞』2018年5月14日。2023年6月25日閲覧。
  5. ^ 甲子園の異邦人193‐194ページ、金賛汀 講談社、1985年、ISBN 978-4062020640
  6. ^ 甲子園高校野球人名事典99ページ、森岡浩、東京堂出版、2004年、ISBN 978-4490106503