成粛皇后
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謝皇后 | |
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南宋の皇后 | |
成粛皇后謝氏 | |
在位 |
淳熙3年8月8日[1] - 淳熙16年2月2日 (1176年9月12日 - 1189年2月18日) |
別称 |
成粛皇后、寿成皇后 寿成恵慈皇太后、寿成恵聖慈祐太皇太后 |
出生 |
不詳 鎮江府丹陽県 |
死去 |
開禧3年5月16日[2][3] (1207年6月13日) 臨安府、寿慈殿 |
埋葬 | 永阜陵 |
配偶者 | 孝宗 |
父親 | 謝寧 |
成粛皇后(せいしゅくこうごう)は、南宋の孝宗の皇后。姓は謝氏。
生涯
[編集]鎮江府丹陽県の人[4]。実父の謝寧[3]を早くに亡くし、翟氏の養女となった。その後、後宮に入り、高宗の皇后呉氏の侍女を務めた[4]。
紹興31年(1161年)、建王趙伯琮(後の孝宗)に側室[5]として与えられ、咸安郡夫人に封ぜられた[3][4]。孝宗が即位すると、婉容に封ぜられた[3]。隆興2年(1164年)、貴妃に上った[3]。質素だが細やかな性格で、夏皇后と死別した孝宗に誠実に仕えた。淳熙3年(1176年)8月、太上皇(高宗)の薦めにより皇后に冊立され、元の姓氏を戻した[4]。
淳熙16年(1189年)2月、孝宗は子の光宗に譲位して太上皇となった。紹熙元年(1190年)正月、謝氏は寿成皇后と呼ばれた[3]。慶元元年(1195年)11月、寿成恵慈皇太后と加号した[6]。慶元6年(1200年)8月、寿成恵慈太皇太后となり[3]、嘉泰2年(1202年)10月、寿成恵聖慈祐太皇太后と加号した[7]。
開禧3年5月16日(1207年6月13日)、寿慈殿にて崩御。「成粛」と諡され[8]、孝宗の永阜陵に合葬された[3][9]。
脚注
[編集]- ^ 『宋史』巻34, 孝宗紀二 淳熙三年八月庚辰条による。
- ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年五月辛卯条による。
- ^ a b c d e f g h 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 成粛謝皇后の項より。
- ^ a b c d 『宋史』巻243, 后妃伝下 成粛謝皇后伝より。
- ^ これより少し前、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の郭氏は、郡王時代に早世した。
- ^ 『宋史』巻37, 寧宗紀一 慶元元年十一月戊戌条による。
- ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 嘉泰二年十月乙亥条による。
- ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年八月己巳条による。
- ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年九月乙酉条による。
伝記資料
[編集]- 『宋史』巻243 后妃伝下 成粛謝皇后伝
- 『宋会要輯稿』巻12 后妃一 成粛謝皇后