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平宗清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平宗清
木曽六十九駅 伏見木曽川・弥平兵衛宗清
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 不明
別名 弥平兵衛尉、弥平左衛門尉[1]
柘植彌平二[2]
官位 正六位上右衛門尉左衛門尉
氏族 伊勢平氏
父母 父:右兵衛尉平季宗[注釈 1]
平維綱
家清
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荷坂の五地蔵(和歌山県那智勝浦町)宗清が平敦盛を供養するために建てたと伝わる。

平 宗清(たいら の むねきよ)は、平安時代後期の武将伊勢平氏の傍流、平季宗の子[3]

略歴

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平頼盛家人[4]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという[5]

仁安元年(1166年)、正六位上右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる[6]。また、後白河院北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている[7]

治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった[8]。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。

子の家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『吾妻鏡』では左衛門尉。
  2. ^ 平正度の次男貞季の後裔にあたり、叔父に平家貞、従兄弟に平家継貞能らがある。

出典

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  1. ^ 平治物語』『吾妻鏡
  2. ^ 尊卑分脈』平氏系図・維綱女項
  3. ^ 尊卑分脈[注釈 2]
  4. ^ 愚管抄』5
  5. ^ 『吾妻鏡』『平治物語』
  6. ^ 山槐記』『除目部類』『兵範記
  7. ^ 吉記』『平安遺文
  8. ^ 『吾妻鏡』『平家物語

参考文献

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  • 新日本古典文学大系43『保元物語 平治物語 承久記』(1992年、岩波書店

関連作品

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歌舞伎
テレビドラマ

関連項目

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