嵯峨公元

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嵯峨 公元(さが きんもと、1922年大正11年〉1月12日 - 1998年平成10年〉10月26日)は、日本の華族嵯峨実勝の長男。母は浜口吉右衛門の娘・尚子。嵯峨家31代当主。長姉が愛新覚羅溥傑妃である。妻は春陽堂書店社長・和田利彦の次女[1]

略歴[編集]

東京大学を卒業して陸軍に入り、終戦時は陸軍少尉。1941年、杉並の邸宅を鈴木三郎助味の素創業社長)に売却し、横浜市港北区日吉に移住する。

1961年に、長姉の浩が北京の夫・溥傑の元に帰ってから亡くなるまで支えた。父の跡を継いで第2代町田学園園長、町田学園第4代理事長を務める傍ら、姉を支えるために1964年に冷凍船株式会社を設立し、三国間貿易を始めた。そのビジネスを兼ねて日本と中国を往来し、浩夫婦に物資を送るなど援助した。文化大革命の嵐の最中にも浩の求めに応じ、命がけで物資を運んだ。その訪中は100回を超える。『お姉さんは大変な結婚をした人だから、どんな事をしても助けてあげないと』というのが口癖だったという。また、浩や義兄溥傑が訪日した際は公私の行事をとりしきっていた。

1998年、76歳で死去。

子孫[編集]

  • 長男:実允(1963年4月22日生[2]
    • 妻:有香(渡邊忠彦長女、1969年3月23日生[2]
      • 孫:寛子(1994年2月15日生[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『人事興信録 第22版 上』(人事興信所、1964年)さ68頁
  2. ^ a b c 平成新修旧華族家系大成上p630

参考文献[編集]