山内豊雍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山内豊雍
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延3年1月6日1750年2月12日
死没 寛政元年8月24日1789年10月12日
改名 松之丞(幼名)→国松→峯善→恭豊→豊雍
諡号 君粛、蘭稀、南邦
戒名 靖徳院融昭免寛
墓所 高知県高知市天神町の真如寺
官位 従四位下筑後守侍従土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
土佐藩
氏族 山内氏
父母 山内豊敷、加恵
兄弟 豊治豊儀豊根豊雍豊泰、峰、賀、正
毛利重就三女友子
豊策、景之助、豊敬、采子、女子
テンプレートを表示

山内 豊雍(やまうち とよちか)は、土佐藩9代藩主。

生涯[編集]

寛延3年(1750年)1月6日、第8代藩主・山内豊敷の四男として生まれる。宝暦6年(1756年)11月11日、豊敷の嫡子となる。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治御目見する。明和元年(1764年)11月13日、従四位下筑後守に叙任する。明和5年(1768年)1月2日、父豊敷の死去により、家督を継いで藩主となる。同年12月28日、侍従に任官した。

藩政においては文武を奨励するなどした。また、天明の大飢饉による被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっているが、効果はなかった。このため、天明7年(1787年)に吾川郡池川・名野川の百姓が伊予に逃散する。豊雍は谷真潮尾池春水久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出す。まず、土佐藩20万石の格式を10万石に切り下げて節約を行ない、問屋制を廃止して五人組の強化などを行なった。これら一連の改革を天明の改革といい、藩財政はいくらか再建されたという。

安永9年12月21日(西暦では1781年1月)、一族の旗本・山内豊産に蔵米1万俵に支給し、大名(土佐新田藩主)にする。なお、豊産への蔵米支給は、弟豊泰を養子に入れる約束で行われた。寛政元年(1789年)8月24日に死去した。享年40。跡を長男の豊策が継いだ。

藩政改革を成功させたことから名君と呼ばれている。また、温厚賢明な性格だったといわれている。

系譜[編集]

  • 父:山内豊敷(1712-1768)
  • 母:加恵 - 貞光院、伊笹氏
    • 本人:山内豊雍
    • 正室:友(とも)子(1749-1780) - 観月院殿翠顔妙黛大姉、毛利重就の三女

参考文献[編集]