安貴王

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安貴王(あきおう、生年不詳(一説では持統4年〔690年[1]持統8年〔694年[2]もしくは和銅3年〔710年[3]) - 没年不詳)は、奈良時代皇族。名は阿貴王阿紀王とも記される。二品志貴皇子の孫で、春日王の子[4][5]。あるいは浄大参川島皇子の孫で、浄大肆・春日王の子[6]位階従五位上

経歴[編集]

養老2年(718年)2月から3月にかけての元正天皇美濃国行幸に同行し、伊勢国を通った際に「伊勢国に幸しし時安貴王作歌」を詠む[7]。この和歌により交際中の女性がいたことが明らかであるが、この女性は紀小鹿と比定される[2][8]

間もなく、紀小鹿との間に子息(市原王)を儲けるが[2]、安貴王は元正天皇采女であった因幡八上采女と通じてしまう[9]。結局、養老年間末(721年-724年頃)[10]臣下天皇に貢進された采女との密通により二人は「不敬之罪」に問われ[9]、因幡八上采女は本郷であった因幡国へ戻された[11]。安貴王に対する処罰内容は明らかではないが、官位剥奪・自宅謹慎程度と想定されている[10]

その後罪から赦されたらしく、聖武朝神亀6年(729年)三世王の蔭位により無位から従五位下叙爵される。ただし、木本好信は選叙令の規定に基づいて21歳を迎えて初めて受けた叙位であるとし、更に逆算すると和銅2年(709年)生まれの白壁王(後の光仁天皇)とは同世代の叔父と甥の関係にあたり、その関係が後年の市原王と白壁王の娘である能登女王(後、内親王)の婚姻に発展したとする説を唱えている[3]

天平5年(733年)に宴席で子息の市原王から長寿を祝う和歌を贈られているが、大森亮尚はこれを40歳の賀に伴うものとして、安貴王の生年を持統8年(694年)と想定する説を唱えている[2]。天平17年(745年)従五位上に至る。

万葉歌人として『万葉集』に和歌作品が4首入集している。

官歴[編集]

続日本紀』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 田辺爵「市原王の系譜と作品」『美夫君志』15号、1972年の説。
  2. ^ a b c d 大森[1985: 18]
  3. ^ a b 木本[2021: 110]
  4. ^ 本朝皇胤紹運録』『公卿補任
  5. ^ 黒板伸夫・森田悌 編『訳注日本史料 日本後紀』(集英社、2003年)は、大同元年4月16日条にある五百枝王(安貴王の孫)が臣籍降下して「春原朝臣」の姓を与えられた記事について、(祖先である)春日宮天皇(志貴皇子の尊号)の"春"と市原王(安貴王の子で、五百枝王の父)の"原"を組み合わせた美称か、と解説している(P1202.)。
  6. ^ 塩谷香織「志貴皇子系譜の疑問-市原王は志貴皇子の曾孫ではない-」『学習院大学国語国文会誌』1980年3月所収。『新撰姓氏録』では安貴王の子孫の春原氏を川島皇子の後裔とする。
  7. ^ 『万葉集』巻3-0306
  8. ^ 因幡八上采女とする見解もある(緒方惟章「天智系の皇子たち」『萬葉集講座』第5巻、有精堂、1973年2月)
  9. ^ a b 『万葉集』巻4-0534,0535
  10. ^ a b 大森[1985: 19]
  11. ^ 鈴木[1989: 20]
  12. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻10,天智天皇御流

参考文献[編集]

  • 大森亮尚「志貴皇子子孫の年譜考 ~ 市原王から安貴王へ ~」『萬葉』121号、萬葉学会、1985年3月
  • 鈴木武晴「安貴王の歌『萬葉集』巻四所収歌をめぐって」『山梨英和短期大学紀要』23,1-27、1989年12月
  • 木本好信「市原王と能登内親王の婚姻」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年3月
  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年