市原王

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市原王(いちはらおう、生年不詳(一説では養老3年(719年[1]) - 没年不詳)は、奈良時代皇族二品志貴皇子または浄大参川島皇子の曾孫で、従五位上安貴王の子。官位正五位下造東大寺長官

経歴[編集]

天平11年(739年)より写経司舎人を務め、天平15年(743年)無位から従五位下に叙せられる。聖武朝では、写一切経所長官を経て玄蕃頭備中守に任ぜられるが[要出典]、天平18年(746年)以降東大寺盧舎那仏像の造営が本格化すると、金光明寺造仏長官・造東大寺司知事を歴任するなど、大仏造営の監督者を務めた。聖武朝末の天平感宝元年(749年)聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に叙せられている。

天平勝宝2年(750年孝謙天皇大納言藤原仲麻呂を派遣して造東大寺司の諸官人に叙位を行い、市原王は正五位下に昇叙される。しかしこの際、下僚であった佐伯今毛人が4階(従五位下→正五位上)、高市大国は2階(従五位下→正五位下)昇叙されたのに比べて、市原王の昇進は1階に留まっている。さらに天平勝宝4年(752年)に行われた東大寺大仏開眼供養会の出席者に市原王の名が見えない[2]。  

天平宝字4年(760年光明皇后崩御に際して山作司を務める。天平宝字7年(763年)正月に摂津大夫に任ぜられ、同年4月には恵美押勝暗殺未遂事件に伴って解任された佐伯今毛人の後任として、造東大寺長官に再任されている。しかし早くも、翌天平宝字8年(764年)正月には吉備真備が造東大寺司長官に任ぜられており[3]、以降市原王の動静は伝わらない。この事情に関して、以下の諸説がある。

  • 天平宝字7年(763年)中に卒去または引退。
  • 天平宝字7年12月(764年2月)造東大寺司判官・葛井根道らが酒席での会話が忌諱すべき内容に触れたとして流罪となった事件[4]に際して、上官として連座した。
  • 邸宅があった平城京の左京四条二坊には藤原仲麻呂の田村第があったことから、天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱にて、仲麻呂派に属して失脚した[5]

人物[編集]

万葉集』には8首が採録されている[6]

大伴家持とは私的な宴で、天平16年(744年[7]・天平宝字2年(758年[8]の二度にわたり同席しており、交際があったとみられる。

官歴[編集]

注釈のないものは『続日本紀』による。

系譜[編集]

参考文献[編集]

  • 大森亮尚「志貴皇子子孫の年譜考 ~ 市原王から安貴王へ ~」『萬葉』121号、萬葉学会、1985年3月
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
  • 宇治谷孟『続日本紀』(中下巻)講談社学術文庫、1995年

脚注[編集]

  1. ^ 大森[1985: 13]
  2. ^ 東大寺要録』。なおこの時の玄蕃頭は秦首麿。
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字8年正月21日条
  4. ^ 『続日本紀』天平宝字7年12月29日条
  5. ^ 岩本次郎「市原王」『朝日日本歴史人物事典』
  6. ^ 『万葉集』巻3-0412,巻4-0662,巻6-0988,1007,1042,巻8-1546,1551,巻20-4500
  7. ^ 『万葉集』巻6-1042
  8. ^ 『万葉集』巻20-4500
  9. ^ 『大日本古文書』
  10. ^ 『大日本古文書』巻3-237
  11. ^ 『大日本古文書』巻4-116
  12. ^ 『大日本古文書』巻5-441