コンテンツにスキップ

多田礼吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人工学者。最終階級は陸軍中将工学博士

経歴

[編集]

静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。

1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。

留学中の1922年(大正11年)12月、陸軍技術本部員に発令され、1923年(大正12年)8月、砲兵中佐に進級。1926年(大正15年)7月、砲兵大佐に昇進し、同年11月、工学博士号を取得した。

1930年(昭和5年)3月から10月まで欧州に出張。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将に進級し科学研究所第1部長に就任。1934年(昭和9年)8月、陸軍省兵器局長に転じ、1936年(昭和11年)3月、陸軍中将に進んだ。同年8月、陸軍科学研究所長に就任。1939年(昭和14年)3月、陸軍技術本部長となる。1940年(昭和15年)12月、待命となり、1941年(昭和16年)1月、予備役に編入された。1945年(昭和20年)5月から9月まで内閣技術院総裁を務めた。

戦後、公職追放となり、1952年(昭和27年)2月に解除された。

栄典

[編集]
位階
勲章等

著作

[編集]
著書
  • 『将来戦と科学新兵器』新東亜協会、1942年。
  • 『南方科学紀行』科学主義工業社、1943年。
編著
  • 『国防技術』白揚社、1942年。

親族

[編集]
  • 娘婿 明石正水(陸軍大佐)

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。※鈴木禮吉と記載。
  2. ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。※鈴木禮吉と記載。
  3. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  4. ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
  5. ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
  6. ^ 『官報』第1234号「叙任及辞令」1931年2月12日。
  7. ^ 『官報』第2751号「叙任及辞令」1936年3月6日。
  8. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。